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■風穴を開けるという野心■~女性の入学は無理~

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おはようございます。 雲がどんよりと空を覆う 川崎の朝です。 今日はこのまま曇り空、 しかし寒さは感じない一日 になりそうですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ゲーニアは、 チューリッヒ大学に進学し、 1903年にはドイツ文学で 博士号をとった。 そして、女性の大学進学を拒む オーストリア・ハンガリー帝国の 教育制度に風穴を開けるという野心を抱いて、 ウィーンへやってきたのだった。 「オーストリアでも法律上は  女性でも大学に入れた。  資格試験に受かれば  誰でも入れることになっていた。  だが現実には女性の入学は無理だった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■私生児として生まれ■~女子入学を認めたチューリッヒ大学~

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おはようございます。 曇り空の川崎の朝です。 昨日は予報通りの雪、 霙どころか湿気の多いぼた雪に 驚かされました。 今朝は雪景色もすっかり消えてますが、 気温は低く、 日陰では凍結で滑りやすいところもあるようです。 お気を付け下さい。 今日はテレワークにします。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ゲーニアは、 得意とするものについては 抜きん出ており、 彼女が行なったことは、 むしろヘムよりも偉大であり、 創造的だった、 とした。 ゲーニアは、オーストリア領 ボーランドのロシア国境近くの出身で、 彼女の父親は、ヘムの父親と違い、 豪商ともいうべき材木商だった。 噂によれば、ゲーニアは、 その材木商がポーランド人のメイドに生ませ、 死ぬ間際に結婚してようやく 認知したという私生児だった。 「いずれにしても彼女は、  10代の終わりに膨大な財産を相続した。  彼女は、一九世紀末の当時、  ドイツ語圏の大学としては  唯一女子の入学を認めていた  チューリッヒ大学に進学した。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■ヘムよりも偉大で創造的■~化粧がかえって老けさせた。~

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おはようございます。 寒い雨が降り続く 川崎の朝です。 気温は零度に近づき、 午前中は霙から雪。 咲いたばかりの桜も、 ひっそりと雪化粧ですね。 丁度外出自粛、 ほっこり熱燗で家呑みが良いです。 暖かくしてお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ゲーニアは 目立って歳をとっていったが、 ヘムのほうは歳をとらなかった。 ゲーニアの鍵台に飾ってある 20歳の彼の写真は、 45年後の人生のたそがれ時と ほとんど変わらなかったが、 ゲーニアは老けるのが早く、 しかもこの変化にも過度に反応し、 化粧がかえって老けて見えさせた。 連れ歩く愛人もいずれも年下で、 かえって本人を年以上に見せた。 いずれも大喧嘩で終わり、 ときには、相手に 細君のいたことがわかったり、 細君が彼女のところの 事務員だったこともあった。 「ゲーニアは、  得意とするものについては抜きん出ていた。  彼女が行なったことは、  むしろヘムよりも偉大であり、  創造的だった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■ゲーニアの野心■~頭のよさも仕事の実績も捨てる~

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おはようございます。 雲がどんよりと空を覆う 川崎の朝です。 しばらく暖かな日が続いていましたが、 午後から明日にかけては、 ぐっと寒くなりそうです。 自粛の週末、 自宅で一人酒盛りでもして、 静かに過ごします。 良い週末をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ヘムは、 引退後は家にこもり、 クラシックのレコードを聴いたりし、 ますます無口になっていったが、 たまに口を開けば 相変わらず辛辣だった。 ヘムが角ばっていたのに対し、 妻のゲーニアは 丸味を帝びていたが、 太ってはいなかった。 ヘムが咬みつき亀ならば、 ゲーニアは赤リスで、 背はちょっとだけ低めで スマートではなく、 美人でもなかった。 とはいえ、本人が 気にしなければどうということはなく、 目はあどけない子供の目であり、 とび抜けて魅力的で、 それはあらゆる感情を表した。 髪は赤褐色で美しく波打っていたが、 なぜか学生の頃から短く切っており、 着ているものはいつも細身で、 尻や脚の太さを強調する結果になっていた。 「美しくなれるものなら、  頭のよさも仕事の実績も捨てて  顧みないであろうことは明らかだった。  これらのことは、  年をとるに従って目立っていった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■公の場から姿を消す■~口を開けば相変わらず辛辣~

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おはようございます。 薄曇りの川崎の朝です。 これから雲が増え、 時々雨が降りそうですので、 雨具の準備をお忘れなく。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ヘムが天下った アングロ・オーストリア銀行は、 その名の通り、 イギリス資本が入っており、 イギリスの銀行が株主になっていた。 そこでイングランド銀行が 清算に乗り出し、 ヘムは60歳前に引退し、 公の場から一切 姿を消すことになったのだった。 ヘムはこれらの成り行きを 淡々と受け入れたが、 彼の唯一の感想が、 クローネ暴落と銀行倒産の 責任をとらなければ、 戦時の財政運営を 誇ることもできなくなる というものだった。 「だが、外見は平静だったものの、  あくまでも敗者だった。  家にこもり、チェスの詰めものを解いていた。  ビリヤードをしたり、  クラシックのレコードを聴いたりしていた。  ますます無口になっていった。  たまに口を開けば相変わらず辛辣だった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■ヘムの挫折■~清算された歴史ある大銀行~

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おはようございます。 薄雲、少し肌寒さを感じる川崎の朝です。 日中は晴れて暖かな一日の様です。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ オーストリアのインフレは、 僧籍の反動政治家イグナーツ・ザイベル師の、 失業を一顧だにすることのない 公共投資への大なたによって、 ようやく制禦された。 その頃、 ヘムはもう一つ大きな挫折をしていた。 大蔵省を辞めたあと、 ウィーンの大銀行 アングロ・オーストリア銀行の 会長に天下ったが、 それは、親友が自殺した 後を引き継いでだった。 噂では、同行が倒産寸前までいったのは、 銀行の会長が、 ヘムのインフレ抑制策の 成功を信じていたためだった。 さらに噂では、ヘムが後を継いだのは、 この親友の汚名をすすぐためだったが、 銀行の再建は、 誰がやってもできるはずがなかった。 「人口6000万の  オーストリア・ハンガリー帝国で活動していた  15近い銀行の全本社が、  人口600万のアルプスの  弱小共和国にそのまま残されていた。  戦後それらの銀行が次々と   整理されるなかで、  最初に清算された歴史ある大銀行が   ヘムの銀行だった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)

■「資本主義・社会主義・民主主義」■~インフレによって崩壊する~

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おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 花冷えが続きましたが、今日は春うらら。 桜も一気に開くような暖かな一日になりそうです。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ シュンペーターは、 何をなすべきかを知っており、 しかも、ヘムのような一高級官僚ではなく、 大臣だったにもかかわらず、 そのなすべきことを できないまま辞任することとなった。 そして、 その後シュンペーターは、 ドイツのボン大学で教授となり、 1929年にはアメリカの ハーバード大学へ移った。 彼が辞任した1922年には、 戦前や戦争直後の時代でさえ 1クローネだったものが、 7万5000クローネになっており、 シュンベーターは、 インフレとの戦いは、 経済理論や経済政策ではなく、 政治的な意思の問題である との確信を得て辞任した。 彼の主著「資本主義・社会主義・民主主義」 の悲観的な結論である、 民主主義は政治的な意思の欠如のゆえの インフレによって崩壊するとの主張は、 このヘムの後任としての、 悲痛な失敗を下敷きにしていたのだ。 「事実オーストリアのインフレは、  僧籍の反動政治家イグナーツ・ザイベル師の、  失業を一顧だにすることのない  公共投資への大なたによって、  ようやく制禦されたのだった。」 ~P.F.ドラッカー「ドラッカーわが軌跡」 (Ⅰ 失われた世界 2章シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群)