■何をなすか、いかになすかの道具■~体系化された専門知識~
∬ちょこっと、ピーター.ドラッカー∬
2000年以上の間、西洋の学問を支配し、
知識を規定したものは、
論理、文法、修辞である。
それらは、何を言うか、いかに言うかの道具であって、
何をなすか、いかになすかの道具ではなかった。
今や知識は、それが知識であることを
行為によって証明しなければならない。
行動のための情報であり成果に合わせた情報である。
しかもこの知識は、成果を生むために
高度に専門化していなければならない。
古代、このような専門知識をテクネ
つまり技能の地位に貶めた理由がここにある。
テクネであったために、それらの技能は
学ぶことも教えることもできず、法則もなかった。
専門化されすぎていて、
学習できず、経験でしか得られないものだった。
教育によってではなく、
訓練でしか得られないものだった。
「今日、われわれが知識とするものは、
行動のための情報、
成果に焦点を合わせた情報である。
その目的とするものは、人間の外、
社会と経済、さらには知識そのものの
発展にある。」
~『プロフェッショナルの条件』
(1章 ポスト資本主義社会への転換)
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