■会話ではドイツ語と英語■~ベニントン・カレッジの教授~
おはようございます。
東の青空に茜色に
染まった雲が浮かんできれいな
高知の夜明けです。
日々秋が深まり、
彼岸花も枯れ始めました。
部屋の中もそろそろ冬向けに
衣替えです。
火曜日、今日も一日よろしくお願いします。
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∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬
ドラッカーは、
コンサルタントは、
みずからリスクをとるわけではなく、
読みを誤った場合のツケを支払うのは
顧客ですからね、
とした。
そしてきっぱりとした口調にはあたかも、
このテーマはこれで
打ち切りだという
意志が込められているかの
ようだったとする。
ドラッカーは1937年に
アメリカの土を踏み、
バーモント州にある
ベニントン・カレッジの教授の職を得て、
主に人文系を扱うこの大学で
政治学と哲学の教鞭をとったが、
選択の余地があったなら、
一年生に小論文を教えたかった、
と明かした。
「わたしは12歳のころから
文章を書いていました。
それも英語でね。
いくつもの言語に接しながら育ちましたから。
家族との会話ではドイツ語と英語、
両方を使っていましたが、
どちらかというと英語のほうが多かったですね」
(『ドラッカーへの旅 知の巨人の思想と人生をたどる』 第1章 チャンスは自分でつかみとるもの)
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