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■今や脚注の専門家■~毛沢東の可能性~

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 おはようございます。 青空が広がる高知の朝です。 大晦日、ついにこの日までコロナ拡大は続き、 新年も続くのでしょう。 この一年、 ちょこっと、ピータ.ドラッカーに お付き合いいただきありがとうございました。 新年もまたよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 カールの外見は、 昔とまったく変わらなかった、 とした。 そして、 物事の動きの裏に真実を見抜き、 陰謀をかぎつける力も 相変わらずだったが、 彼の関心そのものは、 もはや大国間の権力闘争ではなく、 コロンビア大学教授会内部の 権力闘争へと移っていた、 と続ける。 もちろん第三の道の探求や、 経済と自由の調和についても論じ、 新たに原始文化や古代文化に取り組む度に、 第三の道の発見を期待する点も同じだった。 そうなると数週間は若返り、 熱中するのだったが、 それもすぐに熱をさまし、 細々とした好古趣味、 学問のための学問に逆戻りするのだった。 かつては一般化の達人だったものが、 今や脚注の専門家となっていたとはいえ、 昔の若かった頃のカール・ポランニーが 顔を出すこともあり、 たとえば五〇年代半ばに会ったときには、 すでにこう言っていた。 「毛沢東は孔子みたいになると思っていた。  その可能性はあったと思う。  でも権力を選んでしまった。  結局はスターリンと同じになってしまうんだろうね」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■妙な名前を口ずさむという癖■~大きな声で笑い、多弁だった。~

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 おはようございます。 未明の高知の朝、冷え込んでます。 全国的に大雪の恐れがあるとのこと、 お気を付けください。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 カールはますます人類学そのものに熱中し、 脚注にこだわる学究生活に 入り込んだままとなっていった、 とした。 そして、その頃の数年ドラッカーは、 少なくとも月に一度はカールを訪ねていた、 と続ける。 彼はモーニングサイドハイツの コロンビア大学教員マンションに住んでおり、 どの部屋も、床から天井まで、 本とパンフレットと 原稿と手紙が積み上げられていた。 窓は締められ、 暖房はいっぱいに上げたままで、 セーターを重ね着していたが、 外見は昔とまったく変わらず。 大きな声で笑い、多弁だった。 そして、 会うや否や、ドラッカーの仕事や 家族のことを聞くこともせず、 そのときどきの関心事を 夢中になって話した。 「妙な名前を口ずさむという癖も相変わらずだった。  唱えるものが、未来を動かす中国の軍閥から、  青銅器時代の小アジアの遺跡や  5000年前のシュメール王国の  地方官史の役職名に変わっただけだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■不倶戴天の敵■~脚注にこだわる学究生活~

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 おはようございます。 寒い曇天の高知の朝です。 今年もあと三日、 しっかり乗り切りましょう。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 六人のポランニー親子に 共通していたのは、 奴隷制に代わりうるものは 市場だけであるとする 一九世紀マンチェスター学派の 自由放任主義は、 間違いでなければならないとする信念だった、 とする。 そして、 まさに、マンチェスター学派の 市場至上主義は、 ポランニー家にとって不倶戴天の敵だった、 と続ける。 オットーは初期のファシズム、 アドルフはロマンチックなブラジル、 モウジーは農村社会学、 マイケルは禁欲的な個、 カールは経済社会の原理というように、 それぞれがそれぞれの道を追究し、 とくにカールは、 先史時代、原始経済、 ギリシャ、ローマを究めれば究めるほど、 リカード、ベンサム、ミーゼス、 ハイエクの悪しき市場信仰を是としかねない 証左と遭遇する羽目になった。 「こうしてカールは、  ますます人類学そのものに熱中し、  脚注にこだわる学究生活に  入り込んだままとなっていったのだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■共同体としての社会の安定■~ギリシャに目を転じても同じ~

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 おはようございます。 半分の青空に雲がかかる高知の朝です。 ご当地は朝が厳しく冷え込みますが、 これからだんだん日照が増して、 暖かくなりそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ダオメーの黒人王国が 奴隷貿易の上に成り立っていたことを 知ってカールは愕然とするのだった、 とした。 そして、奴隷貿易を行うということは、 もちろん敵対する部族の力を弱め、 打倒するためであったが、 さらには、 部族内での自らの支配を 確実なものにするための 銃を手に入れるためだった、 と続ける。 しかし、その本当の目的は、 相互扶助と再分配に基礎を置く 共同体としての自らの社会の安定を 維持するためだった。 さらにカールは、 ダオメーの黒人王国から 16、17世紀の西アフリカや、 プラトンやアリストテレスの ギリシャに目を転じても、 同じように唖然とさせられた、 とする。 「ギリシャの部族国家、  とくにアテネが、  経済発展と市民の自由を実現し、  市場ではなく、相互扶助と再分配によって  共同体内部の諸関係を律することができたのも、  同じ言葉を話す同じ民族の人たちに対する  奴隷狩りによってだったのである。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■ダオメーの黒人王国■~奴隷狩りと奴隷貿易~

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 おはようございます。 雲が空を覆う肌寒い川崎の朝です。 台風14号過ぎましたが、 パッとしない天候が続きそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ カールは、 先史学や文化人類学は、 資本主義と社会主義を超えた よき社会の探究の手段にすぎず、 彼が経済史から得ようとしたものは、 何の役にも立たない過去だった、 とした。 そして、 原始経済やギリシャ、 ローマを掘り起こしても、 市場のない良き社会などというものは 見つからなかった、 と続ける。 彼は、ダオメーの黒人王国が、 後にアレックス・ヘイリーの『ルーツ』が 描いたような楽園ではないことを知っていたが、 それでも彼は、 市場を外国貿易に限定し、 もっぱら安定した社会と健全な経済を、 相互扶助と再分配によって実現した ダオメーの黒人王国に惹かれた。 ところが彼は、 その安定が、 奴隷貿易の上に成り立っていたことを 知って愕然とするのだった。 「奴隷狩りと奴隷貿易は、  数世紀にわたって信じられてきたように、  悪しき西の白人と東のアラブ人によって、  自由と調和の黒人部族社会に  押しつけられたものではなかった。  彼ら奴隷商人を招き入れ、  奴隷狩りを組織していたのは、  黒人の王や部族長だった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■原始経済への失望■~得ようとしたものは未来への鍵~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 今日で仕事納めの方も多いと思います。 異例の年越しとなりますが、 気持ちを引き締めて乗り切りましょう。 土曜日、健やかにお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 とはいえカール・ポランニーは、 『大転換』のおかげもあって、 1940年代の末、 コロンビア大学に招かれ 経済史を教えることになった、 とする。 その頃彼は、 60歳を超えていたが、 気力は充実しきっており、 コロンビア大学での八年間、 古代のメソポタミア、 中米のアステカ、 アフリカのダオメー、 ホメロスやアリストテレスの ギリシャに至る原始経済と 古代経済を研究した、 と続ける。 彼は、原始経済についての われわれの理解を大きく変え、 文化人類学と原始経済研究において、 カールは一大権威となった。 「しかしカール自身は、  いわば失意の人だった。  彼にとって、先史学や文化人類学は、  資本主義と社会主義を超えた  よき社会の探究の手段にすぎなかった。  彼が経済史から得ようとしたものは、  未来への鍵だった。  だが彼の得たものは、  何の役にも立たない過去だった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■反資本主義的かつ反社会主義的■~再分配、相互扶助、市場取引~

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 おはようございます。 雲がありますが、 おおむね晴れの川崎の朝です。 日中は風がなければ暖かそうですが、 風が強そうです。 今年もあと一週間、 今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 カール・ポランニーが、 『大転換』の中で示した、 近代史観を社会学者のように認めるか、 経済学者のように認めないかは別として、 彼こそ、若き日のカール・マルクス以来、 生計と生活、すなわち経済と共同体の関係を 問題として提起した数少ない論者の一人だった、 とする。 そして、彼は、この問題を、 反資本主義的かつ反社会主義的な、 独自かつ創造的な視点から 提起したのだった、 と続ける。 ドラッカーは、 もしわれわれが、 今後、真に総合的な 経済理論を手にするとするならば、 それは、経済の社会的構造として カール・ポランニーが抽出した再分配、 相互扶助、市場取引の三構造を その骨格とするものとなるにちがいない、 とする。 「しかし、このポランニーの提示した三構造は、  『大転換』における  最も重要な洞察であったにもかかわらず、  ごく少数の者の注目を引くにとどまった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■経済発展と個の自由■~市場などというがさつな破壊力~

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 おはようございます。 今日も青空が広がる川崎の朝です。 冷え込んでますが、 日中は暖かくなりそうです。 今日は木曜日、 コロナ感染者数週最多の曜日、 年末年始休暇を控え注視です。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ポランニーは、 『大転換』の中で、 重要なのは経済と社会の調和だとし、 目指したのは、 市場が、唯一の経済システムでもなければ、 最も進化した経済システムでもないことを 明らかにすることだった、 とした。 そして、経済発展と個の自由を両立させつつ、 経済と社会を調和させる場は、 市場以外にあることを示すことだった、 と続ける。 ポランニーは、 少なくとも市場は、 財の交換と資本の配賦にのみ使うべきであって、 土地と労働の配賦に使ってはならないとし、 それらのものは、 相互扶助と再分配、 すなわち経済合理性ではなく、 社会合理性と政治合理性に よらなければならない、 とした。 「まさに社会がよき社会であるには、  市場を内包してはならないのだった。  市場だけが有効たりうるという領域は、  外国貿易、遠距離貿易だけだった。  地域共同体とそこにおける人間関係は、  市場などというがさつな破壊力から  守らなければならなかった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■財と資本、土地と労働■~重要なのは経済と社会の調和~

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 おはようございます。 連日、晴れて、寒い川崎の朝です。 日中はいくらか暖かくなりそうですが、 朝晩の寒暖差にお気を付けください。 休肝日明けの水曜日、 今日も一日健やかにお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 つまるところ、カールは、 『大転換』で産業革命の歴史を 書き変えようとした、 とする。 そして、 彼は、イギリスの社会と経済を 転換させたものは、 機械の力ではないとし、 直前の世界貿易の急拡大でも、 さらに一七世紀から 一八世紀にかけて起こった 農業革命のせいでもないとした、 と続ける。 ドラッカーは、 カールのこの仮説は、 自由市場体制が、 財と資本だけでなく土地と労働という 二つの生産要素まで扱うという、 賛否両論が対立するに違いない まったく新しい学説だったが、 カールにとって、 この産業革命の解釈は、 資本主義でも共産主義でもない 第三の社会、経済発展と、 安定、自由、平等を 同時に実現する社会を探究する プロセスの一つにすぎなかった、 とする。 「重要なのは経済と社会の調和だった。    彼の目指したのは、  市場が、唯一の経済システムでもなければ、  最も進化した経済システムでもないことを  明らかにすることだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■カールの最初で最後の大著■~ベニントンの教授陣に加わる~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝、 厳しい冷え込みです。 冬晴れは今日も続きそうですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーを通して 神の御心が動き、 カールはベニントン大学の 客員研究員として着任した。 カールの妻イローナは、 学位は持っていなかったが、 女子大生たちに 物理学を教えることになり、 その翌年の一九四二年の夏、 ドラッカー自身もベニントンの 教授陣に加わることになった。 その時ちょうどドラッカーは、 『産業人の未来』を書き上げたときだったが、 一方のカールは執筆を開始し、 聞き手と批評家を必要としていた。 その冬、戦争による燃料不足のため、 ベニントン大学では三か月の休講に入っていたため、 ドラッカーは、著作の合間で時間が余っていた。 「そこで私は、  週に二、三回は、  カールの魔術にかかったままの  四歳のキャスリーンを連れ、  バーモントの雪をかき分けて  ポランニー夫妻の小ぢんまりした家を訪ね、  やがて『大転換』として上梓されることになるものに  耳を傾けることになった。  これがカールの最初で最後の大著となった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■神の御心が動いた。■~ベニントン大学への赴任~

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 おはようございます。 夜明け間際の川崎の朝、 今日も冷え込みました。 今日は冬至、昼間が一番短い一日、 日照が少ない分寒いでしょうね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 まだ漠然とした 取りとめのない状態のものではあったが、 一、二年の時間と生活費さえあれば、 大著として実を結べるものが、 すでにカールの頭の中にある との確信を深めていった、 とした。 そして、 ここでドラッカーを通して 神の御心が動いた、 と続ける。 それは、バーモントから ニューヨークに戻った数日後に起こった。 カールが中西部への 講演旅行に出た後のある日、 ドラッカーは、 バーモント南部の、 小さくはあるが存在感のある 女子大学の学長から この冬か春、 一週間ほどベニントン大学で 集中講義をしてもらえないか との電話を受けた。 それに応諾すると続けて、 誰か、政治学か経済学で 客員研究員をお願いできる人は知らないか と尋ねられたのだ。 「もちろん私は知っていた。  こうして一九四一年の初め、  カール・ポランニーは、  イローナとともにベニントン大学に赴任した。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■『大転換』誕生の経緯■~まとめなければならない仕儀~

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 おはようございます。 夜明け直後の川崎の朝、 広がる青空に淡いピンクが残っています。 あいかわらづの冷え込み、 日中も寒そうですね。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ バーモント州でのその年の夏休み、 ドラッカーは、 自分の考えをカールにぶっつけつつ、 『産業人の未来』の一次稿を書いていった、 とする。 そして、彼は関心を持ち、 聞いてくれ、励ましてくれたが、 ドラッカーの論点である 「保守主義的アプローチ」 にはまったく同意しなかった、 と続ける。 そのため、 やがてカールは ドラッカーとの対話において、 自分の考えをまとめなければならない仕儀となった、 とする。 「こうして、いつの間にか私たち二人は、  まだ漠然とした取りとめのない状態のものではあったが、  一、二年の時間と生活費さえあれば、  大著として実を結べるものが、  すでにカールの頭の中にあるとの確信を深めていった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■経済的機関であり社会的機関■~『産業人の未来』の上梓~

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 おはようございます。 薄曇りの川崎の朝、 今朝も随分と冷え込みました。 今年も残すところ二週間足らず、 コロナ感染第三波もピーク状態が続いてますが、 気を付けて乗り切りましょう。 土曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1942年に次作 『産業人の未来―改革の原理としての保守主義』 を上梓した。 ドラッカーはそのなかで、 社会が組織社会になったこと、 それら組織における 一人ひとりの人間の位置づけ、役割、市民性、 およびそれらの組織内の権力構造としての ガバナンスの問題が、 第二次大戦後における 最大の問題になるであろうことを指摘した。 この『産業人の未来』は、 それは、企業にせよ他のいかなる組織にせよ、 経済的な機関であるとともに、 社会的な機関すなわち 共同体的な機関でもあるという、 今日では常識になっていることを 最初に明らかにした本となった。 そしてまさにこの本が、 ドラッカーのマネジメントに対する関心の スタート地点となり、 やがてGMが、 同社のトップ構造と経営政策の分析を ドラッカーに依頼することになる きっかけとなったものだった。 「その分析から生まれたものが、  第二次大戦の末期に書き上げ、  一九四六年に刊行された  私の最初のマネジメント書  『企業とは何かーその社会的な使命』だった。  その後私は、今日に至るまで、  社会に関する本とマネジメントに関する本を  ほぼ交互に書いてきたように思う。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■『「経済人」の終わり』の刊行■~ヒトラー敗北後の世界~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝、 昨夜から厳しい冷え込みが続いています。 日中は二桁気温にはなりそうで、 少しほっとする天気の様です。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ バーモント州北部に一夏の予定で 借りていた山荘でカールと共に過ごした その一年前の一九三九年、 ドラッカーは処女作である 『「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』を刊行し、 ナチズムの勃興と、リベラリズムおよび ヒューマニズムの衰退の原因を分析していた。 そして、その著作の構想は、 数年前の一九三三年、 ヒトラーが政権を取った直後に 生まれたものだった、 と続ける。 ドラッカーはその後ずっと、 次は、過去ではなく 未来についての本、 ヒトラー敗北後の世界の 来るべき政治と社会のあり方を 追究しようと思っていた。 「そして一九四〇年の夏、  いよいよ書く準備が整ったのだった。  その本は二年後、  『産業人の未来―改革の原理としての保守主義』  として上梓された。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■フランスの降伏、ダンケルクの陥落■~カールにとっても大きな転換期~

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 おはようございます。 未明の川崎、 今朝も一番の冷え込みとなってます。 日中も寒い一日、 暖かくしてお過ごし下さい。 木曜日、今日も一日健やかにお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 カール・ポランニーは、 頭脳明晰、柔軟、 かつ刺激的で、 同時に、穏和、寛容、 かつ豪放な人物で、 しかも、逆境にあるほどに 純粋さを増した、 とした。 そして、 一夏の予定で借りていた山荘に 迎えたカールと、 ドラッカーの二歳にもなっていない 長女のキャスリーンは、 たちまちに仲良しになった、 と続ける。 その夏、ドラッカーたちは ラジオにかじりついて、 フランスの降伏、 ダンケルクの陥落、 イギリス上空の戦いという 暗いニュースに聞き入った。 ドラッカーは、 明らかにカールは、 ほとんど眠らず、 あれやこれやと一晩中考えを巡らせ、 夜が明け、キャスリーンの起きた気配がするや、 彼女の部屋に飛んでいき、 一晩考えたことを話したのだったが、 もちろんキャスリーンに わかるはずはなかった、 とする。 「しかも、何年も前に  中国の軍閥の名を唱えていたように、  独特の早口で話しかけていた。  そのカールに、キャスリーンは魅了されていた。  今振り返るならば、  あのときの数週間は、  悪夢のような日々であったものの、  私にとっては実り豊かな季節であり、  カールにとっても大きな転換期だった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■頭脳明晰、柔軟、刺激的な人物■~ウォーターゲート事件こそ好例~

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 おはようございます。 冬の寒空、冷え込んだ川崎の朝です。 かねてからの予報通り、 この冬一番の冷え込み、 日中も寒そうです。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーの目からみてカールは、 彼自身の頭のよさの 犠牲になっているように見えたが、 そういう見方は 公正でないかもしれない、 とする。 単に、時代の先を 行きすぎていただけに すぎないのかもしれないからで、 すでにカールが亡くなった後のことだったが、 まさにウォーターゲート事件こそ、 現実の政治が、 彼の想像力の水準に ようやく達したことの好例だった、 と続ける。 いずれにせよカール・ポランニーは、 頭脳明晰にして柔軟、 かつ刺激的な人物で、 同時に、穏和にして寛容、 かつ豪放な人物で、 しかも、逆境にあるほどに 純粋さを増した、 とする。 「こうして一九三九年第二次大戦が勃発し、  翌四〇年の六月には、  ドイツ軍の攻撃激化によって  イギリスに帰れなくなったカールを、  私たち夫婦は、  バーモント州北部に  一夏の予定で借りていた山荘に  迎えたのだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■第二次大戦勃発の直前■~『奴が死んだ狙いは何だったんだろう』~

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おはようございます。 冷え込みが厳しい川崎の朝です。 日中も10度を下回る一日になりそうです。 暖かくしてお出かけください。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1938年3月1日のニューヨークで、 カールと長時間話し込んだとき 彼は、ヒトラーのオーストリア侵攻は、 今のところ心配ないと答えた、 とした。 そして、その10日後ドラッカーが、 イギリスに向かう船の中で、 ドイツ軍のオーストリア進入の報に 接したのだった。 その後、第二次大戦勃発の直前にカールが アメリカへ講演旅行にやって来たが、 そのときも戦争はないとし、 ヒトラーと、ソ連、イギリス、フランス、日本は、 中国を分割する密約を結んでおり、 ヨーロッパの小ぜり合いは見せかけだよ、 と言った。 「その頃私は、  カールと政治の話をする度に、  ナポレオン時代の外交の神様タレーランが、  好敵手だった外交官の死を聞いて  つぶやいたというセリフを  思い出させられたものである。  『奴が死んだ狙いは何だったんだろう』」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■ニュースを想像する■~ヒトラーのオーストリア侵攻~

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 おはようございます。 未明の川崎の朝、 冷え込んでます。 日中は一時暖かくなりそうですが、 夜にはぐっと気温が下がりそうです。 明日からはさらに寒くなりそうですね。 本格的な冬準備が必要みたいですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 カールには、 自身に政治家の経験がありながら、 政治家の頭脳と予知能力を 過大に評価し、 あれやこれやの企みが 見えてしまうのだった、 とした。 こうして、 ニュースを解釈する代わりに、 ニュースを想像するようになった、 と続ける。 たとえば、 1938年3月1日のニューヨークで、 イギリスから到着したばかりのカールと、 イギリスの新聞との打ち合わせを兼ねて、 アメリカの新聞のための 取材旅行に出発するところだったドラッカーが、 長時間話し込んだとき、 ドラッカーが、 ヒトラーのオーストリア侵攻を 心配していると言ったところ、 彼は言下に、それはそうだろうが、 今のところは心配ないよと答えた。 「ヒトラー自身がオーストリア併合を要求し、  すでに国境沿いに軍を配置していたことから、  私が驚いた様子を見せると、  彼はこう言った。  『その点もそうだ。しかしヒトラーの狙いは、  彼が何も言っていない国、つまりスイスだよ』。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■分析から読みすぎへ■~想像力がありすぎた。~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 今日は一日晴れ、 日中は暖かな時間もありそうですが、 夕方には冷えてきそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ カール・ポランニーが ドラッカーと出会った六年後、 大恐慌が起こり、 無職となってしまった。 そしてそれは、 カールにとって恵まれた時期ではなかった、 と続ける。 ドラッカーが彼に初めて会った 1927年の編集会議でのカールは、 当時彼の同僚たちが評したような 「読みすぎ」はしておらず、 目立つことのない物ごとの、 最初の動きをつかみ取る 特異とも言うべき能力で、 分析していたにすぎなかったが、 ウィーンを離れて漂泊の身となって以来、 彼は「読みすぎ」をするようになっていた、 とする。 「想像力がありすぎた。  自身に政治家の経験がありながら、  政治家の頭脳と予知能力を過大に評価し、  あれやこれやの企みが見えてしまうのだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■糊口を凌ぐ■~大恐慌による失職~

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 おはようございます。 暗い寒空の川崎の朝です。 今日は一日寒くなりそうですが、 来週は本格的な冬将軍、 真冬の心構え要りますよ。 土曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょ こっと、ピータ.ドラッカー∬ カールは、 40歳を過ぎて高給を得、 過去の栄光で十分満足しているかに見えたが、 ドラッカーの父は、 彼は期待されていたが、 単に運が悪かった人に なってしまったようだ、 との反応を示した。 しかしカール・ポランニーは、 『ザ・オーストリアン・エコノミスト』の 副編集長兼論説主幹として、 安楽な生活を続けるわけにはいかなかった、 と続ける。 ドラッカーと出会った六年後、 大恐慌が起こり、 彼は無職となり、 そこでやむなくクエーカー教徒の 友人を頼ってイギリスへ渡り、 数年というもの、 労働者教育連盟での講演、 小さな雑誌への寄稿、 クエーカー関係のアメリカでの 講演旅行で糊口をしのいでいた。 「私がカールとよく会い親しくなっていったのが、  この時期だった。  私のほうが先にイギリスに渡っていた。  彼がイギリスに来る早々から、  日曜の朝には、  話をしながら長い散歩をすることが  二人の習慣になった。  一九三七年に私と妻がアメリカに渡ると、  カールは訪米の都度わが家を訪れた。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■単に運が悪かった人■~期待されていたけどね~

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 おはようございます。 明るい空が広がる川崎の朝です。 冷え込んだ様子、 窓にはびっしりと露がおりています。 日中は晴れから段々と曇り。 雨の心配はなさそうですね。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 その後カールは 『ザ・オーストリアン・エコノミスト』で 編集の仕事に就き、 やがて副編集長となり、 かつ論説主幹として筆を取った、 とする。 ドラッカーが彼に会ったのが、 そのような生活が始まった数年後のことで、 イローナはその頃物理学の勉強を始めていた、 と続ける。 カールは、 40歳を過ぎて高給を得、 過去の栄光で十分満足しているかに見えたが、 『ザ・オーストリアン・エコノミスト』の 編集会議を見学し、 カール・ポランニーに会ったことを 話したときの父の反応はこうだった。 「カール・ポランニー。  期待されていた人だったよ。  でも、今では、単に運が悪かった人に  なってしまったようだね」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■新生ハンガリーの法相■~共産党による赤色テロ~

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 おはようございます。 川崎の朝、夜明けまでにまだ20分ほどで、 昨日より冷え込んでます。 午前中は雲が多そうですが、 午後は段々晴れそうです。 寒くなりそうですので、 暖かかくしてお出かけください。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ カールと若い看護婦見習いイローナは、 恋に落ちて結婚した。 ドラッカーは、 彼らが結婚して間もなく戦争が終わり、 カロンニー伯爵が亡命先から 帰国して新生ハンガリーの首相となり、 カールを法相に任命した、 とする。 しかし、わずか半年後、 共産党によってカロンニー内閣は倒され、 カールはウィーンに亡命することとなった。 「イローナのほうは、  当初は共産党政権に協力していたものの、  これまた三か月後、  共産党による赤色テロが激化するに及び、  年老いた母親と生まれたばかりの娘をつれて  ウィーンのカールのもとへ身を寄せた。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■ハンガリー国会議員に選出■~若い看護婦見習いとの恋~

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 おはようございます。 未明の川崎の朝、 朝が随分と遅くなりました。 しかし、冷え込みは左程でもないです。 理由は厚い雲が空を覆っているためとのこと、 テレビの天気予報で言ってました。 従って、一日冬の寒空、暖かくしてお出かけください。 休肝日明けの水曜日、健やかな一日になりますように。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ハンガリー自由党党首のカロンニー伯爵は、 反体制派を抱え込んでいたためもあって、 その名声と富にもかかわらず、 亡命を余儀なくされる始末だった、 とした。 ところがカールのほうは、 その弁論の力によって、 わずか二五歳でハンガリー国会の 議員に選出され、 その後第一次大戦が勃発するや、 将校として従軍して戦傷を負った、 と続ける。 そして、 その入院中に、 とんでもなく若い看護婦見習いと 恋に落ちて結婚した、 とする。 その看護師見習いは奇しくも、 カールの父が倒産させた 鉄道会社が国営化された後の 総裁の娘だった。 「しかし、わずか一七歳のイローナが、  すでに反戦運動で逮捕歴があった。  しかも共産党にまで入っていた。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■ハンガリー自由党の結党■~非ハンガリー人の差別に反対~

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 おはようございます。 未明の川崎の朝、 冷えてます。 今日はジョンレノンが40歳で亡くなって、 40回目の命日、 存命なら80歳だったんですね。 いつまでも若いままです。 火曜日、今日も一日健やかにお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ポランニー家の子供たちで、 唯一ドラッカーが親しくなったのは 三男のカールだけだったが、 彼は二〇歳になる前の大学法学部在籍中に、 ハンガリー自由党の結党に参画し、 ほとんどすぐに、 党機関誌の編集者兼論説委員になっていた、 とした。 そして、このハンガリー自由党は、 ハンガリーの政党のうち唯一、 ハンガリーにおける 非ハンガリー人の差別に反対し、 スロバキア人、クロアチア人、 ルーマニア人に 同等の権利を与えることを公約していた、 と続ける。 ということは、 ハンガリー領内において、 他ならぬハンガリー人が 少数派になることを意味し、 ハンガリー自由党は とうてい与党にはなれなかった。 「それどころか、  反体制派を抱え込んでいたためもあって、  党首のカロンニー伯爵は、  その名声と富にもかかわらず、  亡命を余儀なくされる始末だった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■カール・ポランニーも神童■~60歳近くで二度目の創造期~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 昨日は春の陽光にほっとする一日でしたが、 今日も、在宅勤務の合間のウオーキングには 最適な気候になりそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ モウジーとこのマイケルの間が、 カールで、 ドラッカーは、 オットー以外は ポランニー家の全員を知っていたが、 親しくなったのはカールだけだった、 とする。 そして、 モウジーと同様、 カールも神童であったが、 モウジーと同様、 彼も若くして燃え尽きた感に見えた、 と続ける。 しかし彼は、 モウジーとは異なり、 60歳近くになって再び燃え、 二度目の創造期に入った。 「驚くべきことに彼は、  二十歳になる前の大学法学部在籍中に、  富豪ミハイル・カロンニー伯爵による  ハンガリー自由党の結党に参画し、  ほとんどすぐに、  党機関誌の編集者兼論説委員になっていた。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■人間主義の哲学者■~価値と倫理に基盤を置くべき存在~

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おはようございます。 好天の休日になりそうですね。 良い一日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ポランニー家の四男マイケル・ポランニーは、 三〇歳になるかならないかで、 ベルリン時代のアインシュタインの下で働いたが、 ヒトラーが政権を握るや、イギリスに渡り、 マンチェスター大学で化学を教えた、 とした。 そして彼もまた、 ポランニー家の他の人たちと同じように、 社会とその構造に関心を持ち、 共同体を否定するブルジョワ資本主義でも、 自由と個を否定するマルクス主義でもない、 第三の道を探求した、 と続ける。 しかしマイケルの場合、 かなり早い段階で社会に期待することをやめ、 リベラルの理性主義にも、 社会主義の非人間的な集団主義にも反対する 人間主義の哲学者となった。 マイケル・ポランニーにとって、 人間の実存とは孤立した 個としての実存だった。 「しかも、その個たるべき人間は、  論理と因果律ではなく、  価値と倫理に基盤を置くべき存在だった。  その問題意識と解答を端的に表明したものが、  彼の最も有名な著作『ニヒリズムを超えて』だった。  こうしてマイケルは、モダンのストア哲学者となった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■四男マイケル・ポランニー■~アインシュタインと働く~

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 おはようございます。 夜明け間際の川崎の朝、 道路は雨で湿ってますが、 振ってはいないようです。 午前中は時々寒い雨、 暖かくしてお過ごし下さい。 土曜日、今日も健やかにお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 最も有名になったのが ポランニー家の一番下で四男の マイケル・ポランニーで オットーやアドルフよりも 20歳近くも若かった、 とする。 そして、 彼は30歳になるかならないかで、 ベルリン時代の アインシュタインの下で働き、 1920年代には 早くもノーベル賞候補に擬せられ、 問題は化学賞か 物理学賞かにすぎないとされたが、 やがてヒトラーが政権を握るや、 イギリスに渡り、 マンチェスター大学で化学を教えた、 と続ける。 「ところが、  第二次大戦中に大きく関心を変え、  哲学者の道を歩み始めた。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■年をとっても美人だった■~子供と孫以外への関心だけ~

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 おはようございます。 曇り空の川崎の朝、 窓に滴る露が目立ち始めました。 昨日は思いのほか寒い一日でしたが、 今日こそは晴れて暖かくなりそうです。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ち ょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ポランニー家の長女モウジーは長生きで、 亡くなったのは1960年代の終わり近く、 ニューヨークでだったが、 年をとっても美人だった、 とする。 そして、 ポランニー一家の人たちは皆、 顔立ちがよかったが、 60年前の1905年には、 公的な舞台から一切手を引いていた、 と続ける。 「華々しいスターとしての生活の後は、  子供と孫以外への関心をすべてなくし、  二度と筆を取ることはなかった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■フランツ・オッペンハイマー■~絵入りパンフレット~

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 おはようございます。 未明の川崎の朝、 昨日の雨は上がってますね。 今日マ晴れて、ぽかぽかの一日になりそうです。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ポランニー家の長女モウジーが、 短期間の間に発表した論文、 スピーチ、パンフレットは、 20世紀最大の社会的実験の一つである、 イスラエルのキブツにも影響を与えた、 とする。 そして、 当時のモウジーの信奉者の一人に、 ドイツ生まれの フランツ・オッペンハイマーがいたが、 彼は、マルクス主義者というよりも、 フェルディナンド・ラサールの流れを汲む 空想的社会主義者であった、 と続ける。 やがて彼は、 経済学者となり社会学者となったが、 1900年頃には熱心なシオニストとして ヘルツルの協力者になったが、 ヘルツルが最初のキブツの 設計を任せたのが、 オッペンハイマーだった。 「後年、私がフランクフルトで  オッペンハイマー自身から  直接聞いたところによれば、  彼が資本主義的でも共産主義的でもない  真に社会主義的なものとして、  キブツとユダヤ人共同体社会の設計に  直接参照したものが、  高度の文化と質素な生活を求める  モウジー・ポランニーの  絵入りパンフレットだったのである。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■農村社会学の産物■~農協運動と民主化運動の推進~

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 おはようございます。 寒空の川崎の朝、 日々朝が寒くなり、 ベッドを離れずらくなりました。 東京地方は午後に雨の予報も、 寒い一日になりそうです。 暖かくしてお出かけください。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ポランニー家の長女モウジーは、 ハンガリー民族運動、 農民、民芸、民謡、民話の 復興運動のスターであるばかりではなく、 この運動に農村社会学なるものを付け加えた、 とした。 そして、この民族運動に 政治的な推進力を与えたのが彼女で、 農民にとってのビジョンを描き、 共同体としての村落を説き、 わずか19歳で運動のための機関誌を創刊し、 その多くのページを自ら埋めた、 と続ける。 彼女の言説はドナウ河流域、 バルカン地方等では、 一大政治勢力となった緑の戦線を生み、 農協運動と民主化運動を推進した。 さらには、ユーゴスラビアの ヨシップ・チトー大統領にしても、 第一次大戦前は、 モウジー・ポランニーの運動の信奉者だった、 とする。 「事実、その後チトーが展開した  ユーゴスラビアの自治的農村共同体にしても、  自治的工場共同体にしても、  マルクス社会主義のものではなかった。  チトーに修正主義者の  レッテルを貼ったスターリンは正しかった。  まさに、それらのものは、  モウジーが唱えた農村社会学の産物に他ならなかった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)

■長女モウジーの農村社会学■~バルトークやドホナーニ~

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 おはようございます。 未明の川崎、冷え込みましたが、 これ、例年並みみたいですね。 日中は穏やかな気温になりそうです。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ポランニー家の次男アドルフの妹が、 モウジーで、五人の中では 最高の才能の持ち主でありながら、 活動期間はきわめて短かった、 とする。 そして、 25歳で結婚するや、 中産階級の奥方に納まってしまったが、 20歳の頃の彼女は、 バルトークやドホナーニで知られる ハンガリー民族運動、農民、民芸、民謡、民話の 復興運動のスターだった、 と続ける。 「のみならず、彼女は、  この運動に核となるものを加えていた。  それが、彼女が発展させた  農村社会学なるものだった。」 (Ⅰ 失われた世界 6章ポランニー一家と「社会の時代」の終焉)