■ノースカロライナ大学で教鞭を■〜産業社会の社会的構造研究〜
おはようございます。
未明の高知、
東の空が茜に染まってきました。
今日は大寒、一番寒い日、
今日をピークに明日からは
段々と気温上昇するはずですが。
木曜日、今日も一日よろしくお願いします。
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∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬
ドラッカーは、
ヒトラーの手が及ぶ寸前に
オーストリアを脱出した両親は、
1938年の秋にアメリカにやって来ていた、
とした。
そして、
父はノースカロライナ大学で国際経済学を教え、
65歳になった41年からは
ワシントンDCのアメリカン大学で
教鞭を執るかたわら、
関税委員会に籍を置いて
政府の仕事に手を貸していた、
と続ける。
一方弟は、ワシントン州で医師になっていたが、
ドラッカーは、産業社会の政治的、
社会的構造の研究の機会を
得られないことに焦っていたところで、
ポール・ギャレットからの電話がかかってくるまでの数週間は、
最後の一ふんばりをしているところだった、
とする。
戦時中の数年間ベニントン大学では、
燃料節約と学生の社会体験のために、
冬の三か月は休講していた。
「そこで私は、
ニューヨークのコロンビア大学近くに
アパートの一室を借り、
マネジメントと組織を
調査させてくれそうな会社を探すとともに、
大学図書館で企業研究のための資料を探していた。」
(3 アメリカの日々14章プロの経営者、アルフレッド・スローン)
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