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■西洋文化の日本化■~彼を見た最後だった。~

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 おはようございます。 未明の須崎、 ベランダの向こうの城山も闇の中です。 三か月の須崎暮らしも最後の朝、 明日からは高知の自宅からの通勤となります。 南国市の事業所と須崎本社の行ったり来たりで、 忙しいですが、高速道路が整ってきており、 短時間で楽な移動ができそうです。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 国際会議の公式晩餐会で会ったルースは、 当時68歳だったが、85歳のように見え、 重病人のような顔をしていた、 とした。 しかし、彼はいつものように礼儀正しく、 温かくドラッカーを迎え、 自分の隣の席へ引っ張って行って 座らせた。 そしてドラッカーに、 最近は何をしているかと聞いたので、 ちょうど日本から帰ってきたところで、 日本がどれだけ立派に立ち直ったか、 どれだけ早く西洋文化の日本化を行ったかは、 ちょっと想像もつかないほとだと答えた、 とする。 「ルースは顔をしかめて、  立ち上がった。  背中を見せた。  それが私が彼を見た最後だった。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■アメリカのビジョンはつくった■~重病人のような顔~

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 おはようございます。 未明の高知は、 今季一番の冷え込みです。 明後日からは師走、 寒くならないとね。。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ルースは、 アメリカ憲法の ビジョンは自分につくらせてくれ、 とは言ったに違いない、 とした。 そして、事実、彼は、 アメリカのビジョンは つくったのである、 と続ける。 ドラッカーは、 ルースに最後に会ったのは、 彼が亡くなる半年前の1966年9月、 ニューヨークで開かれた マネジメントに関する 国際会議の講演者たちのための 公式晩餐会でのことだった、 とする。 「ルースは主催者側の一員だった。  彼はそのとき六八歳だった。  しかし八五歳のように見え、  重病人のような顔をしていた。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■アメリカ憲法のビジョン■~ピカソとバウハウス派のグラフィックス~

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 おはようございます。 眩しい陽射しの高知の朝です。 朝の冷え込みは日増しに 厳しくなってきますが、 今日の日中は暖かくなりそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ルースにとっては、 『フォーチュン』が親企業的か反企業的かは、 まるで関心のないことで、 企業が重要で目立つ存在になった という事実が重要だったとした。 しかも彼は、 企業が中心的な存在である 新しい世界の形態を把握するには、 ピカソとバウハウス派の グラフィックスが 必要であることも感知していた、 と続ける。 『フォーチュン』はアメリカで初めて 美術部を持つ雑誌となり、 しかもそこに記事面と 広告面双方の制作を 任せることにより、 読者にトータルな 視覚体験を提供した。 ドラッカーは、 やがて電子情報による 雑誌が生まれるならば、 それはヘンリー・ルースの 落とし子と見るべきである、 とする。 「彼は『憲法は誰が書いてもよい。  国歌は自分に書かせてくれ」  とまでは言わなかった。  彼は、アメリカ憲法のすごさを承知していた。  しかし『政策は誰がつくってもよい。  ビジョンは自分につくらせてくれ」  とは言ったに違いない。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■表意文字の力■~親企業的か反企業的か~

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 おはようございます。 今日もまた快晴の朝を迎えた高知です。 今朝も冷え込みました。 日中は晴れますが、 気温は十度ちょっとと 寒い一日になりそうです。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ルースは、 政治的な立場を聞いても 意味はなかったが、 アメリカ人の世界観には 重大な影響をもたらした、 とした。 そして、 ルースの通った 山東省煙台のミッション・スクールでは 英語しか教えていなかったので、 中国語は読めなかったと思う、 と続ける。 しかし、 1939年にドラッカーが 初めてルースと会ったとき彼は、 中国の表意文字を知っているかと聞き、 『タイム』はああいうものにしたいんだ、 と言った。 ドラッカーは、 明らかに彼は、 建築学的なデザインによる 表意文字の構造と意味と感覚を 一字をもって伝える、 表意文字の力を追求していた、 とする。 「彼にとっては、  『フォーチュン』が  親企業的か反企業的かは、  まるで関心のないことだった。  重要なのは、企業が重要な、  しかも目立つ存在になった  という事実だった。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■美学は道徳なり■~新たなものの見方~

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 おはようございます。 まぶしい朝日が射す 高知の朝です。 来週は早12月、 晩秋から初冬に 段々と移ろって来てますね。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょ こっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ルースは道徳家で、 酒こそ若干たしなむようになったものの、 終生厳格な長老派だった、 とした。 そして実に彼は、 美学は道徳なりとする キルケゴールと同じ考えだった、 と続ける。 ルースは、 マーシャル・マクルーハンよりも はるか前に、 メディアがメッセージであることを 見抜いていたが、 政治と政策へは 影響をもたらさなかった。 ドラッカーは、 彼は、政治的な 見解は持っていたが、 政治的な立場を聞いても 意味はなかった、 とする。 「しかし彼は、  アメリカ人の世界観には  重大な影響をもたらした。  新たなものの見方というものを、  津々浦々にまで行き渡らせた。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■彼は道徳家だった。■~中身よりもビジョン~

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 おはようございます。 東の空が朝焼けに 染まり始めた高知の朝です。 雲が少し多いようですが、 だんだん取れてきそうですね。 寒い朝ですが、日中は20度近くになり、 快適な一日になりそうです。 木曜日、今日もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ルースは中国と 日本以外のことについては、 自分の雑誌の政治的な立場にも、 政治そのものにも関心を持たなかった、 とする。 そして、 そもそも彼は中身に関心がなく、 関心があるのはビジョンだった、 と続ける。 ドラッカーは、 彼にとって重要なことは、 編集者が介入論者であるか 孤立論者であるかではなく、 彼と同じ世界を見ているか、 同じ雑誌をつくろうとしているか、 同じ形態、同じメディアを見ているかだった、 とする。 「彼は道徳家だった。  酒こそ若干たしなむようになったものの、  終生厳格なプレズビテリアン(長老派)だった。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)

■日本を嫌う親中派■~軌道に乗ったヨーロッパ復興~

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 おはようございます。 快晴の稲城の朝です。 今日、引き上げて高知に帰ります。 高知も天気良さそうですね。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アルースの中国観は、 アメリカに伝統的というべき、 中国に対する一種の 不可思議な感情移入を 反映したものだった、 とした。 そして、あらゆる親中派のご多分に漏れず、 ルースもまた、日本を嫌い、 第二次大戦終結後も久しく 反日的な記事を掲載させていた、 と続ける。 1950年代の半ば、 ドラッカーは、 自身が書いた記事について 解説を求められて『フォーチュン』の 編集会議に出ていたが、 突然ルースが特集の企画を持って 現れた。 それはようやく軌道に乗った ヨーロッパの復興がテーマで、 彼は皆にどう思うか聞いたところ、 口々に素晴らしい企画で、 タイミングがいい、 と言った。 そこへ誰かが、日本の復興も一緒に 載せなければならないと発言したところ、 ルースは本当にそう思うかと皆に聞いた。 「全員が頷いた。『それじゃ止めよう』。  彼は立ち上がって、  そのまま出て行ってしまった。」 (Ⅲ アメリカの日々12章ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』)