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5月, 2021の投稿を表示しています

■スターリンへの疑い■~悪意に満ちたファシストの嘘~

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 おはようございます。 薄曇りの川崎の朝です。 曇り時々晴れ、日照が少ない分だけ 昨日より涼しいようです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 良心の人であり、 先駆けの人だった、 とした。 そして彼のソ連礼賛は 一大センセーションを巻き起こし、 彼の知られた真摯さと純粋さが、 世論に重大な影響をもたらした、 と続ける。 ドラッカーは、 あの分析力と不屈の良心で知られる ブレイスフォードが スターリン主義を認めているからには、 世論にとっては、 ソ連の恐怖政治も、 強制収容所も、秘密警察も、拷問も、 農民虐殺も、粛清の嵐も、 悪意に満ちたファシストの嘘に決まっていた、 とする。 「一九三四年に  私が初めて会った頃には、  すでにノエルはスターリンに  疑いの念をもっていた。  しかもその疑いは増大する一方だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■良心の人であり先駆けの人■~ソ連とスターリンを賞賛~

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 おはようございます。 薄い雲がかかってますが、 明るい陽が射し始めた 川崎の朝です。 午前中は晴れ、午後から段々と雲が増え 夕方には俄雨もありそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブレイスフォードは、 自由主義者と社会主義者に対し、 共産主義者とパートナーシップを 組むべきことを訴えた。 そして彼は同時に、 共産主義者に対し、 思想的な潔癖さにこだわることなく、 ナチズムとの戦いという 共通の目的のもとに 参集することを求めた、 と続ける。 ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 ソ連とスターリンを 賞賛することまでしたが、 それは、 フェビアン協会のウェッブ夫妻や、 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの ハロルド・ラスキなどの、 後のスターリン礼賛者のものほどには 全面的なものではなかった、 とする。 「しかし彼は、  ウェッブ夫妻ほどの政治力はなくとも  良心の人であり、  ラスキほどの鋭さはなくとも  先駆けの人だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■反ナチズムの共同戦線結成■~共産主義者とのパートナーシップ~

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 おはようございます。 薄い雲がかかる川崎の朝です。 朝は涼しく感じますが、 日中は30度位にはなりそうですね。 この週末は好天に恵まれそうです。 アメリカバイデン政権が初の予算教書を出したが、 第二次大戦後最大の660兆円規模。 コロナ後を見据えた中間層向け支援策を 手厚くした内容となっている。 全体のパイが大きいので動きもダイナミックに見えるが、 一貫したリーダーシップはうらやましく感じますね。 土曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブレイスフォードは、 ナチズムの伸張を見るにつけ、 ソ連の共産主義を 唯一の拮抗勢力と みなすようになっていった、 とした。 こうして、 かつてツァーの ロシアとの同盟を 批判することによって名を挙げた 同一人物が一九三〇年代には、 スターリンのソ連との同盟を提唱し、 一九三二年には、 その後進歩的文化人による ソ連礼賛の呼び水となった本まで書いた、 と続ける。 ドラッカーは、 それは自由主義者、社会主義者、 共産主義者による反ナチズムの 共同戦線結成の呼びかけだった、 とする。 「ブレイスフォードこそ、  左翼人民戦線の構想とスローガンの  生みの親だった。  彼は自由主義者と社会主義者に対し、  共産主義者とパートナーシップを  組むべきことを訴えた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■ナチズムに対する拮抗勢力■~スターリン主義への嫌悪~

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 おはようございます。 昨日の名残の様に雲が残る 薄曇りの川崎の朝です。 段々陽射しが増し日中は気温上昇模様。 このところ日毎に10度近くの気温差、 体調管理にお気を付けください。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 頭にこびりついて離れることのない 自らの最大の関心事である大問題について、 左翼の人間とは話ができなかったから、 自分と付き合ったのだと思う、 とした。 それは、ソ連共産党との関係だったが、 ブレイスフォードは、 自分の考えをまとめるためにも 誰かに話をすることは必要だった、 と続ける。 ドラッカーは、 プレイスフォードが 共産主義に心を動かされたことはなく、 ましてスターリン主義に 魅力を感じたことなど 露ほどもなかった、 とする。 「その教条主義、画一主義、  秘密警察、恐怖政治、  神学論争のすべてを嫌悪していた。  しかし彼は、  ナチズムの伸張を見るにつけ、  ソ連の共産主義を唯一の  拮抗勢力とみなすようになっていった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■左翼でもリベラルでもなく■~頭にこびりついた大問題~

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 おはようございます。 雲が多く薄暗い空模様の川崎の朝です。 昨晩も結局雲が引かず、 スーパームーンは現れてくれず、 しばらくお預けのようですね。 それまで生きてるかな。。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 1931年に労働党が 連立政権に参加して保守化すると、 かつての仲間と縁を切り、 知的な反体制運動である 左翼ブッククラブ運動の 推進役を果たした、 とした。 そして、これに対して、 ドラッカーが 左翼だったことは 一度もなく、 リベラルでさえなかった、 と続ける。 ドラッカーは、 ノエルとクレアの友人のうち、 ごく稀な、 左翼ならざる人間だったために、 彼はドラッカーと付き合ったのだと思う、 とする。 「なぜなら当時、彼は、  自らの最大の関心事、  頭にこびりついて離れることのない  ある大問題について、  左翼の人間とは  話ができなかったからだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■左翼ブッククラブ運動■~ますます左傾化していった~

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 おはようございます。 まぶしい日が射しこむ 川崎の朝です。 今日は一日好天のようですね。 昨晩はきれいな満月が出ていましたが、 今日はスーパームーンが見られそうですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 イギリスへ来て一年足らずの頃には、 あらゆる種類の、 「社会による社会の救済」に 懐疑的になっていた、 とした。 そして、ブレイスフォードは、 この「社会による社会の救済」の 根っからの信奉者だった、 と続ける。 ドラッカーは、 彼の先祖がキリストによる 福音を信じたように、 社会による救済を信じ、 ますます左傾化していっていた、 とする。 「一九三一年に労働党が  連立政権に参加して保守化するや、  かつての仲間と縁を切っていた。  その頃彼は、知的な反体制運動、  左翼ブッククラブ運動の推進役を  任じていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■社会による社会の救済■~根っからの観察者~

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 おはようございます。 明るい陽が射し始めた川崎の朝です。 今日は曇り時々晴れ、 気温は夏日、上着なしでも良さそうですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードが ドラッカーたちと親しくなったのも、 会話すべき肝心の問題があったためだった、 とした。 そして、ドラッカーが 初めてプレイスフォードに 会ったのは24歳のときだったが、 彼は36歳も年上だった、 と続ける。 その頃ドラッカーは、 イギリスへ来て一年足らずの時で、 小さなマーチャント・バンクで アナリスト兼秘書役に なったばかりだった。 ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 すでに名のある一流のジャーナリストであり 一流の文筆家だったが、 ドラッカーは根っからの観察者、 ブレイスフォードは運動家だった、 とする。 「私の政治、社会、経済へのアプローチは、  ブレイスフォードのそれと正反対だった。  すでにその頃には、  私は、あらゆる種類の、  「社会による社会の救済」に  懐疑的になっていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■話題は肝心の問題に■~多岐にわたるおしゃべり~

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 おはようございます。 薄い雲がかかってますが、 明るい陽が射し始めた 川崎の朝です。 午前中は晴れ間が多そうですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ノエルとクレアは 質素に暮らしていたが、 プレイヤーと レコードだけは贅沢をしていた、 とした。 そして、 夕食の後は多岐にわたる話題で おしゃべりをしたが、 最初に引き揚げるのは クレアだった、 と続ける。 彼女は朝仕事をしていたので、 一時間ほどして 引き揚げることとなり、 その後二人だけになると、 話題は肝心の問題に移っていった、 とする。 「ブレイスフォードが  私たちを招待するのも、  そもそも私たちと親しくなったのも、  そのためだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■一日二杯のウイスキー■~プレイヤーとレコード~

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 おはようございます。 薄曇りの空から 淡い日が射す川崎の朝です。 昨日はすっきりとした天候には なりませんでしたが、 今日は大丈夫そうですね。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ クレアは、 ドラッカー夫婦が着く頃には ほとんどスケッチに出かけており、 ノエルのほうはいつも 自分の見つけたものを見せたがり、 荷物を車から部屋へ移す時間もくれなかった、 とした。 そしてノエルは、 ドラッカーたちを引き立てると、 たとえば丘の中腹に 新しくできた横穴に案内したが、 そこでは、 しばらくすると、 母狐が姿を現し、 子狐とたわむれた、 と続ける。 我々が腰を下ろして 午後のお茶を楽しむのは、 それからで、 ノエルは一日二杯と決めている ウイスキーの水割りの 一杯目をこのとき飲んだ、 とする。 「間もなくしてクレアが戻ってきた。  一時間ほどレコードに耳を傾けた。  ノエルとクレアは質素に暮らしていたが、  プレイヤーとレコードだけは贅沢をしていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■イギリスの会社の土曜は半ドン■~今か今かと待っていた~

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 おはようございます。 まだ小雨の降る川崎の朝です。 この雨もこれから上がってくるようで、 午後は晴れ、 明日からしばらくは、 雨とおさらばのようですね。 今日はフジコヘミングのコンサートに行ってきます。 当初はカルテットとの演奏予定でしたが、 ウイーィンから来日できないとのことで、 ソロコンサートとなりました。 ここでもコロナ禍の影響、ですね。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ロンドンから少し離れた モンクス・リズボロの別荘に、 ドラッカー夫婦以外の者が 招かれることもあったが、 ノエルとクレアの 共通の友人となっている者は、 あまりいないようだった、 とした。 そして、 当時イギリスの会社は、 土曜は半ドンで、 ドラッカー夫婦も会社勤めだったため。 別荘に到着するのは 土曜の午後と決まっていた、 と続ける。 ドラッカー夫婦に先んじて、 彼らは木曜には来ており、 ドラッカー夫婦が着く頃には クレアは、ほとんど出かけており、 どんなに天気が悪くとも スケッチに行っていた、 とする。 「ノエルのほうは、  今か今かと待っていてくれた。  いつも彼は、  自分の見つけたものを見せたがった。  荷物を車から部屋へ移す時間もくれなかった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■六週間に一度の割合■~共通の友人となっている者~

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 おはようございます。 薄曇りの川崎の朝です。 だんだん明るくなりそうな空模様ですが、 たまに雨が降りそうです。 この一週間、梅雨の様な天候でしたが、 明日からは晴れ間が増えそうです。 関東地方の入梅はどうなるんでしょうか。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ノエル・ブレイスフォードと クレア・リートンの二人 と会うのは彼らが共有している モンクス・リズボロの別荘が常だった、 とした。 そして、 その別荘は、 ロンドンからは 一時間ほどの位置にあり、 当時はロンドンの膨張も、 10マイルほど手前の プリンセス・リズボロで 止まっていた、 と続ける。 ドラッカー夫婦は、 六週間に一度程度招かれたが、 その他に、ノエルとクレアが アメリカへの講演旅行などで 空けているときには、 別荘を使わせてくれた、 とする。 「もちろん、私たち以外の者が  招かれることもあった。  しかし、ノエルとクレアの  共通の友人となっている者は、  私たちの他には  あまりいないようだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■クレア・リートンとの同棲■~イギリスの田園と田園生活~

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 おはようございます。 雲の多い川崎の朝です。 今日も一日雲が取れませんね。 午後になると、雨が降り始めそうです。 雨具はお忘れなく。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1937年1月に アメリカへ行くまで、 ドラッカー夫婦は、 頻繁にブレイスフォードと会い、 深く彼を知るようになっていった、 とした。 そして、 彼の初婚の相手は 精神の病気でずっと入院していたが、 イギリスの法律は離婚を認めなかった、 と続ける。 、 彼はドラッカーと知り合うかなり前から、 有名なグラフィック・デザイナーの クレア・リートンと同棲していたが、 彼女は銅版画と彫刻の他に イギリスの田園と田園生活についての本も 何冊か出しており、 イギリスとアメリカの双方で かなり広く読まれていた、 とする。 「彼ら二人は、  私たち夫婦の住まいのすぐ近くの  ハムステッドのアパートに住んでいた。  しかし、私たちが二人に  ロンドンで会うことはあまりなかった。  彼らが共有している  モンクス・リズボロの別荘で会うのが常だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■スタンブリスキーのこと■~深く彼を知る~

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 おはようございます。 昨晩からの雨が残る 川崎の朝です。 今日はこのまんま、 断続的に雨。 今週一杯はこんな調子の様です。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードと どのような経緯で知り合ったかは 覚えていないが、 彼からインタビューを受けたことだけは、 はっきり覚えている、 とした。 そしてまた、 ヨーロッパ東部の農村社会学や、 ブルガリアの農民指導者で 彼の親友だった スタンブリスキーのことを ドラッカーが知っていることに、 驚きつつも大喜びしたことも 覚えている、 とする。 しかし、ドラッカーとブレイスフォードが 頻繁に会うようになったのは、 翌1935年年初以降のことだったと思う、 と続ける。 「その後一九三七年の一月に  アメリカへ行くまで、  私たち夫婦は、  頻繁に彼と会い、  深く彼を知るようになっていったのだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■主人の奴隷依存はより大きい■~ナチスのオーストリア合併~

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 おはようございます。 雲が多い川崎の朝です。 今日も一日曇り、 夜には雨も降りそうです。 今週はぐずついた天気が続き、 やがて梅雨入りなんでしょう。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブレイスフォードはドラッカーに、 インド人は私には 感謝しきれないはずだが、 独立記念式典には 呼ばれないだろうね、 と言った。 そして、 ブレイスフォードが1920年代、 イギリスにおける最強の インド独立論者となったために、 労働党内での不人気にもかかわらず 深く敬意を払われる存在となりえたのは、 主人の奴隷への依存は 奴隷の主人への依存よりも大きいがゆえに、 一刻も早くイギリスは インドから独立しなければならない、 と論じたからだった、 とする。 ドラッカーは、 ブレイスフォードと どのような経緯で知り合ったかは 覚えていないとした上で、 次のとおり続ける。 「経緯はともかくとして、  私は、一九三四年の夏、  ナチスのオーストリア合併の  最初の試みについて記事をまとめていた彼から、  インタビューを受けたことだけははっきり覚えている。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■イギリスの魂を救う■~独立式典には呼ばれない~

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 おはようございます。 雲が空を埋める川崎の朝です。 まだ雨は降ってませんが、 湿気がたっぷりの空気です。 このまま晴れ間はなく、 にわか雨の可能性もありそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 初期キリスト教では、 奴隷は魂を救われて天国へ行けるが、 その主人は、 奴隷を所有することによって魂を失い、 地獄に落ちると教えていた、 とした。 そして、ブレイスフォードは、 イギリスの魂を救うために、 インド独立を主張したのだった、 と続ける。 ドラッカーは、 そのような考えが、 インド人を喜ばせなかったのは 当然のことで彼自身も そのことは承知しており、 あるときドラッカーに 次のとおり言った。 「インド人は私には感謝しきれないはずだ。  今でも僕を必要としている。  でも、独立の記念式典には呼ばれないだろうね」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■イギリスの良心の問題■~奴隷の主人は地獄に落ちる~

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 おはようございます。 薄い雲から仄かに日が射す川崎の朝です。 これから段々と雨雲が近づき、 雨が降ったりやんだりの 一日になりそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 インドはイギリスの統治抜きでは やっていけないのではないか とさえ思っていた、 とした。 そして、 インドはイギリスによって虐げられ、 搾取されてきたとの左翼の説を、 根も葉もないこととして片付け、 と続ける。 ドラッカーは、彼によれば、 イギリスによる統治が、 インドにとって よいことかどうかが 問題なのではなく、 インド独立は、 イギリスの良心にかかわる問題だとしていた、 とする。 「初期キリスト教の教父たちは、  奴隷は、魂を救われて天国へ行けるが、  奴隷の主人は、  奴隷を所有することによって魂を失い、  地獄に落ちると教えていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■クロムウェルそっくり■~インド独立を望まない~

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 おはようございます。 薄曇りの川崎の朝です。 これまで好天の日々が続きましたが、 しばらく不調な天気となりそうですね。 そのうち関東地方も 梅雨入りとなるんでしょうね。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 ネルー、ガンジーの二人、 そのいずれをも信用はしていなかった、 とした。 そしてある時、 ドラッカーが ガンジーについて聞いたところ、 ブレイスフォードは、 ときどきクロムウェルそっくりに見える、 と答えたとする。 クロムウェルこそ、 ブレイスフォードが イギリスのあらゆる政治家のうち 最も嫌っていた人物だったのだ。 「そもそもブレイスフォードは、  インド独立を望ましいこととも、  インドにとってよいこととも思っていなかった。  インドは、イギリスの統治抜きでは  やっていけないのではないかとさえ思っていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■ガンジーの宗教色と政略性■~ロマン・ローランのベストセラー~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 昨日の雨も今日はすっかり上がり、 気持ちの良い青空が広がってます。 今日は夏日、 屋外では暑くなりそうですね。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピ ータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 今ではインド建国の父と呼ばれる ネルーとガンジーが ブレイスフォードのもとを訪れたが、 彼はその後もインドのことは あまり勉強しなかったし、 気にもかけていなかった、 とした。 そしてその後、 ガンジーやネルーとの 付き合いも深まっていったが、 ブレイスフォードは、 彼ら二人を信用していなかった、 と続ける。 ドラッカーは、 ネルーは頭がよすぎたし、 ガンジーは宗教色と 政略性の取り合わせを ブレイスフォードは 気に入らなかったのだ、 とする。 「一九二〇年代の末、  ロマン・ローランのベストセラーのおかげで、  マハトマ・ガンジーが一躍有名人となった。  しかし、ブレイスフォードが  ガンジーに心酔したことは一度もなかった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■マハトマ・ガンジーとの接点■~インドのことは何も知らない~

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 おはようございます。 分厚い雲が空を覆う川崎の朝です。 今にも雨が滴りそうですが、 これから一日断続的に降りそうです。 雨具が必要です、お忘れなく。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブレイスフォードが 選挙に落ちた数日後、 オックスフォードの 同じ学寮の16歳年下の卒業生である、 ジャワハルラル・ネルーが訪ねてきた、 とした。 その訪問の趣旨は、 ネルー本人と、 マハトマ・ガンジーという名の インド人弁護士との共同執筆による、 インド独立を主張する論文を 出版してくれそうな、 ある出版社を紹介してほしい というものだった、 と続ける。 ドラッカーは、 こうして1920年、 ブレイスフォードは、 インド独立を支持する 最初のイギリス人論客となるのだが、 当時ブレイスフォードは、 インドのことについては、 事実上何も知らなかった、 とする。 「彼はその後もインドのことは  あまり勉強しなかったし、  気にもかけていなかった。  最初のインド訪問でも、  さほどの感銘は受けなかった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■ネルーの訪問■~運動のほうが彼を見つけた~

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 おはようございます。 曇り空の川崎の朝です。 西日本は今日から明日は雨、 激しい雨のところもあるとのこと、 関東以北は晴れから曇り、 雨の心配はなさそうです。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 第一次大戦が終わったとき、 戦争の反動で反戦運動家が 一転してヒーローとなり、 労働党の主流となった、 とした。 そしてついにブレイスフォードも、 第一次労働党内閣では、 政務次官あるいは閣僚の座さえ 夢ではなくなっていたが、 彼自身が選挙に落ちた、 と続ける。 ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 次の運動を探し、 すぐに見つけたが、 これは運動のほうが彼を見つけた、 と言ったほうが合っている、 とする。 「選挙に落ちた数日後、  彼はオックスフォードの  同じ学寮の一六歳年下の卒業生、  初見のインド人弁護士の訪問を受けた。  訪問者の名は、ジャワハルラル・ネルーだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■一転してヒーローに■~同じ体質の社会主義者~

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 おはようございます。 日の出が早まり、 6時近くになれば、 空が明るくなる川崎の朝です。 しかし、今日は下り坂で、 にわか雨の予想されます。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは いわゆる平和主義者ではなく、 正義の戦争と不正義の戦争を分けていた、 とした。 そして彼は、 再び少数派の 反体制の立場を取ったため、 『マンチェスター・ガーディアン』を 辞めざるをえなくなり、 数年は仕事も収入もなく、 貧乏暮らしを余儀なくされた、 と続ける。 一、二度刑務所入りもしたが、 間もなくブレイスフォードと 同じ体質の社会主義者の ある小さな反戦グループに迎えられた。 ドラッカーは、 そこには、 筆のたつ者がいなかったため、 もっぱら彼が スポークスマンの役を果たした、 とする。 「やがて第一次大戦が終わったとき、  戦争の反動で反戦運動家が  一転してヒーローとなり、  労働党の主流となった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■正義の戦争と不正義の戦争■~トルコの軛からの解放~

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 おはようございます。 明るい陽が射す川崎の朝です。 昨日は夏の暑さ、 今日は幾分下がりますが、 夏日にはなるでしょう。 暦の上では立夏を過ぎて夏なんです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 バルカン戦争は 戦った者すべてを疲弊させ、 傷つけ、挫折させて 1913年いっぱいで終わった、 とする。 そして、その数か月後、 第一次大戦が勃発したが、 ブレイスフォードが言っていたように、 イギリスがフランスおよび ロシアと結んだ同盟は、 ドイツに対する抑止力と ならなかっただけでなく、 イギリスが調停役を果たすことを 不可能にした、 と続ける。 ブレイスフォードは ただちに戦争に反対する決意を固めたたが、 彼はいわゆる平和主義者ではなかった。 正義の戦争と不正義の戦争を分けていた。 「トルコの軛から  自らを解放するための  ギリシャ、セルビア、ブルガリアの戦いは、  正義の戦争だった。  わずかの土地を求め、  炭鉱を求め、  栄光を求めての大国の戦いは、  不正義の戦争、下らない戦争だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■奇人や変人ではなく良心の人■~イギリス伝統の反体制派~

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 おはようございます。 薄曇りの川崎の朝です。 これから雲が取れ、 日中は晴れて気温上昇、 夏日となりそうです。 連休明けの通勤再開で、 一部の電車では満員状態、 電車を間引くように行政から 要請されたことによるものだが、 在宅勤務が行き届いていなければ 少ない電車に集中することは明らかだよな。 テーマパークの無観客営業要請、 笑い話でしかないね。 映画館やスポーツジムも無観客ならOKなんて、 言い出すのかな 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは 歴史の科学的法則や頭や懐ではなく、 信念と道義に基づく 心の社会主義者だった とした。 かくして彼は孤独の人で、 まさにイギリス伝統の反体制派だった、 と続ける。 そして、 彼はプロレタリアの 団結よりも思いやり、 富者への復讐よりも貧者への正義、 政府の行動よりも個の主体性、 福祉よりも尊厳、 権力ではなく良心 に重きを置く伝統の人だった、 とする。 「それは反体制の伝統だった。  孤高の人だったが、  奇人や変人ではなく、  良心の人だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■心の社会主義■~信念と道義に基づく~

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 おはようございます。 快晴の川崎の朝です。 新緑が目に鮮やかな季節、 気持ちのいい微風と言いたいところ、 今日は中国大陸からの黄砂が多そうです。 ここでもマスクは有効でしょうね。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードのバルカン記は、 ベストセラーとなり、 その後も彼地へ赴任する 各国若手外交官の 参考書となっていた、 とした。 そして、ブレイスフォードは、 反体制自由主義者として バルカンへ赴き、 反体制社会主義者として帰還した、 と続ける。 彼は決して キリスト教社会主義者ではなく、 キリスト教は捨てていたが、 科学的、弁証法的、 マルクス主義的社会主義者というよりは、 宗教的社会主義者だった、 とする。 「彼のそれは、  歴史の科学的法則よりも、  信念と道義に基づく社会主義だった。  頭や懐の社会主義ではなく、  心の社会主義だった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■ブレイスフォードのバルカン記■~信仰と名誉を大切にする人々~

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 おはようございます。 薄雲を通して 明るい陽が射す 川崎の朝です。 夕方には一雨ありそうです、 お出かけには雨具をお忘れなく。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ブレイスフォードは、 バルカンの地を愛し、 緑豊かな耕地に恋をした、 とした。 そして何よりも、 バルカンの地を訪れた 多くのイギリス人と同じように、 素朴な文明化していない人々、 昔ながらの生活を生き、 信仰と名誉を大切にする人々、 昔からの民謡を歌い 民話を語る人々を愛したのだった、 と続ける。 ドラッカーは、 延々と続く悲惨な戦いを報ずる ブレイスフォードの記事には、 民話と祭り、結婚と宿恨と葬儀、 迷信と伝承医学、アレクサンダー大王、 レジスタンス、部族と伝統、 半ば忘れられた言語、 ギリシャ、ローマ、ビザンチン、 十字軍、トルコの侵略の遺跡 についての記述が、 豊富に盛り込まれていた、 とする。 「それらブレイスフォードのバルカン記は、  まとめられてベストセラーとなり、  一九三〇年代に至ってなお、  彼地へ赴任する各国若手外交官の  参考書となっていた。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■バルカンの地に恋をした。■~実り豊かな時代~

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 おはようございます。 小雨の中、 薄日が差し始めた川崎の朝です。 これから回復し日中は晴れそうですね。 今日は連休明けの出勤日、 通勤電車が込み合いそうです、 気を付けましょう。 と言ってもね、やれることはやってるし。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブレイスフォードは、 自ら取材するため、 戦争特派員として バルカン戦争に従軍した。 ドラッカーは、 この期間ほど ブレイスフォードにとって 実り豊かな時代はなかった、 と続ける。 彼は戦闘と苦難を目の当たりにし、 至近に見ようとして担架係になったが、 ギリシャ軍に従軍しているときと ブルガリア軍に従軍しているときに 自らが負傷した。 「彼はバルカンの地を愛した。  春の野の花、  夏から秋にかけての渇いた土、  深い谷の急流、  谷間の緑豊かな耕地に恋をした。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■戦争特派員としてバルカンへ■~大戦争の序曲~

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 おはようございます。 雲は多めですが、 明るい陽射しの 川崎の朝です。 今日は子供の日、 毎年子供が減少し、 鯉のぼりも寂しげですね。 連休最終日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ここでもブレイスフォードは、 少数派の反体制の立場に立ったが、 ドイツ帝国を索制するための同盟政策は、 全党派の支持するものだったため、 彼の名前は不人気なものとしてではあったが、 広く世に知られるところとなった、 とした。 そして、10年後ブレイスフォードは、 戦争特派員としてバルカン戦争を 自ら取材するため、 トルコと戦い、 次いで互いに戦うようになった ギリシャ、ブルガリア、セルビアの軍に 従軍した、 と続ける。 ドラッカーは、 今日となっては、 1912年から13年にかけて行なわれた バルカン戦争は、 歴史の脚注ほどのものにすぎないが、 当時その戦争は、 やがて来るものと怖れられていた 大戦争の序曲として見られていた、 とする。 「それはちょうど、  25年後の1930年代に  スペイン内戦が第二次大戦の序曲として  見られていたのと同じだった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■ドイツ帝国への索制■~少数派の反体制の立場~

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 おはようございます。 快晴の朝です。 今日は一日晴れ、 にわか雨の心配はないようですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 スコットによって、 ブレイスフォードは、 国際面担当の編集者として 迎え入れらたが、 その頃イギリスは、 平時としては初めて、 大陸の大国と同盟を結んだ とした。 そして、それは自由党政権下での 政策だったが、 その自由党系の 『マンチェスター・ガーディアン』の 国際面担当の編集者が、 それらの同盟を、 戦争を防止するどころか 誘発するものとして攻撃した、 と続ける。 ここでも彼は、 少数派の反体制の立場に立ったが、 それはちょうど、 イギリスが自らの衰えを 自覚しはじめた頃で、 工業力と軍事力において 急速に力をつけつつあった ドイツ帝国を索制するための同盟政策は、 全党派の支持するものだった。 「こうしてプレイスフォードの名前は、  不人気なものとしてではあったが、  広く世に知られるところとなった。」 (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■反戦キャンペーンのおかげ■~国際面担当の編集者~

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 おはようございます。 晴れてますが、肌寒い朝です。 今日は憲法記念日、 静かな休日です。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 プレイスフォードは、 激烈な反戦争論者へと変身し、 学究としての将来は消えたが、 彼の反戦論文の数々が、 『マンチェスター・ガーディアン』の名編集者、 老スコットの目を引いた、 とした。 そして、 同紙が地方紙から 全国紙へと成長したのは、 この反戦キャンペーンの おかげだった、 と続ける。 ドラッカーは、 老スコットは、 ブレイスフォードを 国際面担当の編集者として 迎え入れたところから、 ブレイスフォー ドの名は 全国に知られるところとなった、 とする。 「ちょうどその頃、イギリスは、  エリザベス一世以来の長い伝統を破り、  平時としては、  初めて大陸の大国と同盟を結んだ。  最初がフランスであり、  次がロシアだった。」  (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■非国教徒の牧師としての血■~学究としての将来は消えた~

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 おはようございます。 明るい陽が射しこむ朝ですが、 これからまた時々曇り、 ところによっては雨。 不安定な天気予報ですので、 お気を付けください。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ちょうど勃発したボーア戦争が、 プレイスフォードを 学問の世界から政治の世界へと 押し出してしまい、 彼は良心の問題として戦争に反対した、 とした。 そして、良心の問題について 黙しているには彼の体には、 非国教徒の牧師としての 代々の血があまりに多く流れていた、 と続ける。 ドラッカーは、 彼は、激烈な反戦争論者へと変身し、 パンフレットを書き、 演説を行ない、 集会とデモを組織したが、  もちろん、それらの運動が、 当時の与党色の強いオックスフォードで 歓迎されるはずもなく、 彼の学究としての将来は消えた、 とする。 「ところが、彼の反戦論文の数々が、  『マンチェスター・ガーディアン』の名編集者、  老スコットの目を引いた。  当時は、イギリスの有力紙では、  同紙だけが反ボーア戦争の論陣を張っていた。」  (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)

■反ボーア戦争で進路が変わる■~良心の問題として戦争に反対~

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 おはようございます。 今日は雨模様、 雷雨のところもありそうです。 今日から五連休に突入、 気を付けて下さい。 土曜日、良い休日でありますように。 ---------------------- ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 プレイスフォードは、 温和で優しい好人物であったが、 話が教会に及ぶと、 カトリック教徒の売春宿通いや 偶像崇拝を攻撃したジョン・ノックスへと急変し、 あらゆる教会、宗教、聖職者、信者を 罵倒したのだった、 とした。 そして、ブレイスフォードは オックスフォード大学の古典文学を専門とする チューターとして職業生活の第一歩を踏み出した、 と続ける。 彼には学究生活に肌が合っていたようで、 オックスフォード好みのウィットに富み、 オックスフ ォードに不可欠のマナーも備わっていた、 とする。 「ところが、ちょうど勃発したボーア戦争が、  彼を学問の世界から  政治の世界へと押し出してしまった。   彼は良心の問題として戦争に反対した。」  (Ⅱヨーロッパ人々 9章 反体制運動家ブレイスフォードの挫折)