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■アメリカの価値観と原則■~『「経済人」の終わり』刊行の頃~

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 おはようございます。 既にまぶしい日が差す高知の朝です。 今日も猛暑でしょう。 お気を付けください。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 『クーリエ』の編集長、 エイガーは、 アメリカはヒトラーに対する 戦いの先頭に立つべきことを、 何のためらいもなく主張した、 とした。 そしてドラッカーは、 1939年の夏、 『「経済人」の終わり』が刊行されてすぐ、 エイガーからルイヴィルの 彼の家に一週間招かれた、 と続ける。 その時、ロンドンやパリでは、 対ヒトラー宥和策が全盛だったが、 ワシントンはいかなる代償を払おうとも、 ヨーロッパの戦いには 巻き込まれまいとしていたが、 エイガーは、 戦争は不可避で、 アメリカは参戦するであろうし、 参戦しなければならない、 としていた。 「アメリカの価値観と原則が、  アメリカが追求してきたものの  全世界的な崩壊を防ぐ最後の試みに  アメリカ自身が参画することを要求している、  と結論したのである。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■ヒトラーへの戦いの先頭■~ピューリッツァー賞受賞~

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 おはようございます。 東の空が赤く染まり始めた高知の朝です。 昨日、高知も梅雨明けした。 農作物の成長時期に雨が少ないこと、 影響があるんだろうな。 急激な季節変移にこれまでにない 体調管理の必要はある。 しかし今更の感はあるが、 地球の健康管理への 配慮もお忘れなく。 水曜日は休肝日明け、 アルコールは水分補給には ならないことは承知してますよ。 今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカは不況時代から 戦前時代へと急速に移行した際の 外交の基調を定めた一人が、 『クーリエ』の編集長、 ハーバート・エイガーだった、 とした。 そして、そのエイガーは不況時代、 ピューリッツァー賞に輝いた アメリカ史『国民の選択』によって、 アメリカの夢についての 傑出した歴史家としての 地歩を築いていた、 と続ける。 それは、アメリカの政治の独自性を重視し、 アメリカをヨーロッパの 悪徳、国粋主義、権力主義、植民地主義から 切り離すことに 成功してきた歴代大統領の物語だった。 「ところがこのエイガーが、  アメリカはヒトラーに対する  戦いの先頭に立つべきことを、  何のためらいもなく主張したのだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■世界が急速に動いた。■~ハーバート・エイガー~

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 おはようございます。 曇り空の高知の朝です。 四国など一部を除いて 異例の速さで梅雨明けした。 しかし、昼夜なく暑い。 この季節の高知での生活は数十年ぶり、 この先どうなるのだろう。 今日は休肝日で吞めないし、、、 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1936年にルーズベルトが 再選を目指したときにも、 外交問題は存在しておらず、 彼は孤立主義をとった、 とした。 しかし一年後、 世界が急速に動いた。 1938年にはアメリカが、 重大な外交問題に直面し、 重大な決定を迫られていることが 明らかになったが、 問題は、果たして 「最後にして最良の希望の地」 でありつつ外交政策を持ちうるか というところまで来ていた。 ドラッカーは、 アメリカは不況時代から 戦前時代へと急速に移行し、 そのとき策定した外交の基調が 戦後も続くことになった、 とする。 「その基調を定めた一人が、  ウェイマックと同様に  抜きん出たジャーナリストで  文筆家だったケンタッキー州ルイヴィルの  『クーリエ』の編集長、  ハーバート・エイガーだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■何ら考慮する必要のない人■~外交問題は存在しない~

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 おはようございます。 明るい陽が差し始めた 高知の朝です。 今日の天気は、 ”曇り時々雨で雷を伴うでしょう。  最高気温は 30° です。” とのことです。 熱中症、雷雨両方共 お気を付けください。 日曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1932年にルーズベルトが 初めて大統領選に出馬したとき、 彼の外交政策は孤立主義だった、 とした。 そして事実、大統領就任後に ルーズベルトが最初に取った行動が、 ロンドンでの世界経済会議開催への 公然の反対だった、 と続ける。 これによって、 アメリカの新政権は、 ニューディール政策が外交、 対外責任、対外協力に 無縁であることを、 天下に知らしめたのだった。 ドラッカーは、 1936年にルーズベルトが 再選を目指したときにも、 外交問題は存在しておらず、 当然彼は孤立主義をとった、 とする。 「当時の国際主義者は、  ウォールストリートの金融関係者、  死の商人たる兵器製造業者、  イギリス植民地主義の手先  という金持ちの悪者ばかりであって、  何ら考慮する必要のない人たちだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■世界が急速に動いた。■~ハーバート・エイガー~

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 おはようございます。 曇り空の高知の朝です。 昨日は時折雷雨、 今日も曇り時々晴れ、 もしかすると雷雨。 お気を付けください。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1936年にルーズベルトが 再選を目指したときにも、 外交問題は存在しておらず、 彼は孤立主義をとった、 とした。 しかし一年後、 世界が急速に動いた、 と続ける。 1938年には、 アメリカが重大な外交問題に直面し、 重大な決定を迫られていることが 明らかになったが、 問題は、果たして 「最後にして最良の希望の地」でありつつ、 外交政策を持ちうるかというところまで 来ていた。 ドラッカーは、 アメリカは不況時代から 戦前時代へと急速に移行し、 そのとき策定した 外交の基調が戦後も続くことになった、 とする。 「その基調を定めた一人が、  ウェイマックと同様に  抜きん出たジャーナリストで  文筆家だったケンタッキー州ルイヴィルの  『クーリエ』の編集長、  ハーバート・エイガーだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■アメリカの夢が意味を持つ■~ビジョンよりも生存~

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 おはようございます。 曇り空の高知の朝です。 雨は降ってないですが、 たっぷりと湿気を蓄えた雲が 空を覆っています。 一応梅雨、 いつ降ってもおかしくはないんでしょうね。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ウェイマックに初めて会ったその頃、 アメリカの信条におけるアメリカは 孤立主義でなければならなかった、 とした。 そして事実、 アメリカで国際主義と されてきたものでさえ、 孤立主義の一変形にすぎなかった、 と続ける。 それは、国際裁判所、国際連盟、国際連合など、 いかなる政策決定も抜きに 平和と秩序を維持してくれる 自動の完全なメカニズムによって、 国際問題や外交の煩わしさから、 アメリカを解放しようとするものに すぎなかった。 ドラッカーは、 アメリカの夢が意味を持つには、 国際関係は事件でも何でもないもの でなければならなかったとする。 「ところが国際関係の現実は、  常に外交の優位を要求する。  信条、約束、価値、理想は、  目的ではなく、手段であるとする。  国としてのビジョンよりも、  国としての生存を優先させる。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■アメリカは孤立主義■~ヨーロッパ人を止めた~

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 おはようございます。 薄曇りの高知、 既に高温多湿の朝です。 今日もおおむね晴れて 猛暑日となりそうです。 急に到来した真夏の気候、 熱中症対策をお忘れなく。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカとは 「最後にして最良の希望の地」であり ヨーロッパ人をこの国へと 惹き付けたものが、 そのようなアメリカだった、 とした。 そして、惹きつけられて この国へ来たヨーロッパ人のことごとくが、 時を置くことなく、 ヨーロッパ人であることを止めた、 と続ける。 ドラッカーが 外国特派員であることを 説明し終わったとき、 ウィリアム・ウェイマックは にこりと笑って、 外国特派員でいることも そう長くはなく、 じきにアメリカの記者に なってしまうと言った。 その数年後、 ベニントン大学で 教えることになったドラッカーは、 基礎教養課程のカリキュラムから 好きなものを選んでほしいと言われ、 ヨーロッパ文明ではなく、 アメリカ史とアメリカ政治を 選んだのだった。 「しかし、私がウェイマックに初めて会ったその頃、  アメリカの夢は、その最も苦手とする問題、  すなわち国際問題に直面しかかっていた。  アメリカの信条におけるアメリカは  孤立主義でなければならなかった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■最後にして最良の希望の地■~アメリカ的であるかないか~

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 おはようございます。 東の空が明るくなり始めた高知の朝です。 今日は一日晴れ、真夏日になりそうです。 水分補給にお気を付けください。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ニューディールは、 アメリカとは 国でも国歌でもなく、 理念であるとの信条を 確認しようとするものだった、 とした。 そしてこのことだけについては、 ニューディールに反対する者も 共感したのだった、 と続ける。 ドラッカーは、 ニューディール時代においては、 常に論点は、 正しいか正しくないかではなく、 アメリカ的かアメリカ的でないかにあった、 とする。 「アメリカとは、  リンカーンのいう  「最後にして最良の希望の地」だった。  そしてヨーロッパ人を  この国へと惹き付けたものが、  そのようなアメリカだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■アメリカとは理念■~独自性、特異性、「らしさ」~

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 おはようございます。 雲の多い高知の朝です。 今日は雨は小康状態、 気温も30度近くまで上がりそうです。 熱中症対策を万全に。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカへ来た者は、 合衆国憲法に忠誠を誓うことによって、 アメリカ市民になるのだった、 とした。 そして、不況時代だったからといって、 ヨーロッパが、アイオワや、 ワシントンの農務省や、 デトロイトのGM本社から 急に遠くなったということはなかった、 と続ける。 第一次大戦後、 大勢のアメリカ青年が ヨーロッパ団体旅行に参加して以来、 ヨーロッパはほとんど 誰でも行けるところになっていたが、 この不況時代にこそ、 アメリカとヨーロッパの距離は、 かつてなかったほど 遠いものになっていたのだった。 ドラッカーは、 実はニューディールとは、 アメリカの独自性、特異性、 「らしさ」を確認する 作業だったのである、 とする。 「それは、アメリカの基本的な信条、  すなわち、アメリカとは国でも国歌でもなく、  理念であるとの信条を  確認しようとするものだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■政治家が聖人に■~合衆国憲法に忠誠を誓う~

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 おはようございます。 暗い空の高知の朝です。 雨は小康状態の様ですが、 一日降りそうです。 昨日は高温多湿で 過ごしにくい一日でしたが、 今日はいくらか気温は低めの様です。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカ人にとって、 アメリカとは、国ではなく政体で、 約束とは、政治的な希望、 社会的な希望だった、 とした。 そして、アメリカの夢とは 理想社会のことであり、 アメリカ人とは政治人間のことだった、 と続ける。 たしかにアメリカは国土であり、 地上において一定の地域を 占める存在であるが、 その場所とは、それなくしては アメリカ合衆国はありえないという 一つの普遍的な理念が所在する 空間なのだった。 ドラッカーは、 アメリカとは、当時も今も、 政治家が聖人になっているという 世界で唯一の国であり、 それは他ならぬ アブラハム・リンカーンである、 とする。 「そもそもアメリカには、  土着の芸術は一つしかない。  他ならぬ政治である。  そしてアメリカへ来た者は、  際立って抽象的な理念、  すなわち合衆国憲法に  忠誠を誓うことによって、  アメリカ市民になるのだった。、」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■約束とは政治的な希望■~カフカ・ブームの到来~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝です。 今日は弱い雨が時々降るとの予報、 いくらか涼しいんでしょうね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 この時代ほど、 ヨーロッパがアメリカで評価され、 尊敬された時代はなかった、 とした。 そして、この時代のアメリカ人は、 まだカフカのことは知らなかった、 と続ける。 カフカ・ブームがやって来たのは、 1940年代の半ばだったが、 彼らアメリカ人のアメリカ観は、 カフカの『アメリカ』のレベルのもので、 それは、旧大陸の悪徳、憎悪、抑圧、罪悪とは 縁のない別世界だった。 ドラッカーは、 詩集としては珍しく 数千部を売り上げた アーチボルト・マクリーシュは、 「アメリカは約束だった」と謳った、 とする。 「アメリカ人にとって、  そしてカフカのようなヨーロッパ人にとって、  アメリカとは、国ではなく政体だった。  約束とは、政治的な希望であり、  社会的な希望だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■文化、価値、洗練の象徴■~西洋文化が中核~

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 おはようございます。 薄明かりの射す高知の雨です。 昨日は雲が多く 蒸し暑い一日でしたが、 今日は晴れ梅雨の晴れ間ですね。 明日からはまた梅雨空、 熱中症に注意して有効にお使いください。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アイオワを辺地と見ていたのは、 外国特派員だけではなく、 アイオワ自身がそう見ていたが、 地の地の多くも、 同じように自らを見ていた、 とした。 そして、ヨーロッパの列強とその抗争、 価値観と文化、信条からは 遠く離れた存在と見ていた、 と続ける。 ドラッカーは、 ヨーロッパよりも良いと アメリカは見ていたわけではなかったが、 文化、価値、洗練の象徴として、 この時代ほど、 ヨーロッパがアメリカで評価され、 尊敬された時代はなかった、 とする。 「まさに当時は、  デトロイト、トレド、クリーブランド、  シカゴ、ミネアポリスなどの  中西部の諸都市が、  美術館を建てては、  ヨーロッパの美術品を買い漁り、  東のコロンビア大学から  西のスタンフォード大学に至る諸大学においては、  アメリカ的要素をすっかり排した  西洋文化がカリキュラムの中核に  据えられた時代だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■バッファローがうろつく平原■~アイオワ自身が辺地と見る~

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 おはようございます。 大粒の雨が降り始めた 高知の朝です。 今日は時々止む時間もありそうです。 良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 外国特派員は 東海岸にとどまっていた、 とした。 しかし、外国特派員にとっては、 ニューヨークとハリウッドの間の 広大な地域は、 バッファローがうろつく 平原にすぎず、 それらはすでに、 シンクレア・ルイスと H・L・メンケンが すべてを書いてしまっていた、 と続ける。 ドラッカーは、 たまたまデモインに現れ、 中西部、小麦の地、アイオワ大学、 アイオワ州立大学、 ニューディールの農業政策、 アメリカ人について知りたい などと言い出す外国特派員こそ、 書く値打ちのある 存在だったのだ、 とする。 「アイオワを辺地と見ていたのは、  外国特派員だけではなかった。  アイオワ自身がそう見ていた。  アイオワ以外の地の多くも、  同じように自らを見ていた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■決まりきった記事を書く■~妙な民族的行事~

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 おはようございます。 暗い雲が空を覆う高知の朝です。 これから段々と晴れ間も出てきそうです。 梅雨の晴れ間の天気予報です。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 デモインまでやって来る 外国特派員はもとより、 そもそも外国人がほとんどおらず、 彼らは東海岸にとどまっていたのだ、 とする。 そして、 大統領候補指名大会のような 妙な民族的行事のために、 仕方なくシカゴまで 入って来ることはあった、 と続ける。 彼らは、 19世紀のナイアガラから 定番の訪問地の場を奪っていた デトロイトを訪れ、 フォードのリバールージュ工場について 記事を書くことはあった、 とする。 「もちろんハリウッドについて、  明らかに30分前にもらった  広報資料にもとづいて、  決まりきった記事を書く者もいた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■原子力委員会の初代委員■~アメリカの有力紙~

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 おはようございます。 雨は小康状態の高知、 日中はまた降り始めそうです。 でも、明日はつかの間の晴れ、 梅雨の一服となりそうです。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 「レジスター」の編集長 ウィリアム・ウェイマックは、 編集部門でピューリッツァー賞を受賞し、 アメリカ中西部と農業問題についての 権威でありながら、国際問題に関心を持ち、 ヨーロッパとアジアについても詳しかった、 とした。 そして、第二次大戦後は トルーマン大統領によって 原子力委員会の初代委員の 一人に任命された、 と続ける。 1921年から 『レジスター』は誰が選んでも、 アメリカの有力紙10紙に名を連ねる新聞で、 しかも、なぜか国際面が強かった。 ドラッカーは、 もちろんウェイマックは、 アメリカに外国特派員がいることは 知っており、 二、三か月に一度東部に出るときには、 必ず外国特派員の何人かと会っていた、 とする。 「事実、こうしてデモインで知り合った後は、  彼は東部へ出て来る度に、  私と昼食や夕食を共にするようになった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■ピューリッツァー賞受賞者■~有数の新聞人~

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 おはようございます。 梅雨入りした高知、 今朝も雨です。 涼しいのは助かりますが、 じめじめがちょとね。 今日は健康診断で朝から須崎です。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ 「レジスター」の編集長 ウィリアム・ウェイマックは、 ドラッカーに、 アメリカについて書いている イギリスの記者なんですね、 と言った。 そして、彼は早速 ドラッカーを取り上げた記事を書き、 翌日の一面に掲載した。 ドラッカーは、 このウェイマックは田舎者どころか、 アメリカでも有数の新聞人で、 すでに1936年と37年に 編集部門でピューリッツァー賞を 受賞していた、 とする。 「アメリカ中西部と  農業問題についての権威でありながら、  国際問題に関心を持ち、  ヨーロッパとアジアについても詳しかった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■『レジスター』編集長ウェイマック■~アメリカ駐在の外国特派員~

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 おはようございます。 朝から雨の高知です。 昨日例年より遅い梅雨入り、 しばらく鬱陶しい日が続きます。 明ければ灼熱の土佐の夏、 しばらくの我慢ですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは 「レジスター」の編集長 ウィリアム・ウェイマックから、 記事を書くのは 『ニューヨーク・タイムズ』か、 『トリビューン」なのかと 質問を受けたとした。 そして、続けて、 ヨーロッパのどちらに滞在しているのかと 続けて聞いてきた。 ドラッカーは、 アメリカに駐在する外国特派員であって、 イギリスの新聞のために書いている、 と言うと彼はすっかり興奮して、 近くにいた記者たちに紹介してくれた。 「私たちにとっては、  外国特派員というと、  ヨーロッパについて記事を書く  アメリカの記者のことなんですよね。  でもあなたは、  アメリカについて書いている  イギリスの記者なんですね」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■女性教育者の手本■~結婚するまで処女~

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 おはようございます。 薄明かりの射す高知の朝です。 午後には雨、四国も梅雨入りしそうですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 単科大学では、 財政的に余裕があるため、 芸術や人文科学系では、 有名大学よりも優れた教員を揃えていた、 とした。 そしてそのような単科大学には 素晴らしい人物がいた、 と続ける。 たとえば、カリフォルニア州オークランドの ミルズ大学の学長アウレリア・ラインハルトは、 女性教育者の手本ともいうべき人物で、 ハーバート・フーバーの恋人だったが、 結婚を断ってスタンフォードで 歴史家として名を馳せた。 ドラッカーが三日間の連続講演で ミルズ大学に滞在した頃は、 すでに30年学長を務め、 西部一の女子大に育て上げていたが、 彼女は、長身で骨張っていたうえに 声に迫力があり、 彼女の自宅でのドラッカーの 歓迎パーティでのことだったが、 会話が一瞬途切れ、 一人の女子学生の声だけがはっきり聞こえた。 「『私、結婚するまで処女でいるわ』  ラインハルト学長は振り返ると、  腹に響くような声で  『学生生活をぼんやり過ごしては駄目よ』と言い、  また私との会話に戻って、  ヴェルサイユ講和会議に出たときの話を  続けたのだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■女子大のベニントン大学■~優れた教員を揃えていた~

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 おはようございます。 まぶしい日差しの高知の朝です。 昨日の肌寒さと 打って変わって今日は夏日。 体調管理にお気を付けくださいね。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 いろいろな実験をしているのは、 地方の小さな単科大学であり、 それらの大学は、 学長の勇気に応じうる程度に 小規模だった、 とした。 そして当時は、 小さな単科大学のほうが、 規模の大きな総合大学よりも 財政状態がよかった、 と続ける。 女子大のベニントン大学は、 学生の総数を325人に絞っていたが、 財務的にも教育的にも活力に満ちており、 教員への給与は最高水準だった。 ドラッカーは, 学生当たりの教員数も多く、 325人の学生に対し 50人の教員がおり、 たしかに授業料は高かった、 とする。 「しかし、大学院や研究所や  高齢教員を抱えていない単科大学では、  費用はあまりかからなかった。  財政的に余裕があるため、  芸術や人文科学系では、  有名大学よりも優れた教員を揃えていた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■勇気に応じうる程度■~産学共同やインターンシップ~

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 おはようございます。 既に小雨が降る高知の朝です。 午後には止むとの予報ですがどうでしょうか。 こんな感じの天気が続き、 やがて梅雨入り宣言なんでしょうね。 土曜日、良い週末をお過ごしください。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 地方の小さな単科大学でも、 どの有名大学にも負けない学力を 誇る大学があった、 とした。 そして、すべての大学が、 オバーリン、ウェズリアン、 ポモナ、グリンネル、ミルズ並みの 学力と規律を誇っているわけではなかったが、 いずれも、訪問者をして、 アメリカという国が いかに学ぶことと教えることを 大事にしているかを 認識させるだけのものを持っていた、 と続ける。 貧弱で遅れている大学さえ ベストを尽くしており、 いろいろな実験をしているのは、 それら小さな単科大学であり、 それぞれの学長の勇気に応じうる程度に 小規模だった。 「たとえばオハイオ州  イエロー・スプリングズの  アンティオク大学では、  アーサー・モーガン学長が、  産学共同を推進し、  全学科において、  五か月の長期インターンシップを実現していた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■講演旅行に勝るものはない■~性的抑制を心配する~

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 おはようございます。 薄明かりの射す高知の朝です。 今日は一日曇り空で、 気温も25度前後、 にわか雨の可能性もありそうです。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ニューヨーク州ロチェスターの 大学クラブでの講演の際には、 講演を前後半に分け、 間に『アイーダ』の死ぬ場面を 入れるということもあった、 と答えた。 そして、国を知るうえで 講演旅行に勝るものはない、 と続ける。 ドラッカーの場合は 大都市が多かったが、 地方の小さな単科大学での 講演も増やしていった。 ドラッカーは 彼らは外部の者の話に飢えており、 人なつこく親切で魅力的な人たちで、 アメリカという国と同じように 多様だった、 とする。 「どの有名大学にも負けない学力を  誇る大学があった。  19世紀初頭の塾のような大学があった。  夜9時には学生寮の  電気を消してしまう大学があった。  学生たちの性的な抑制を  心配する大学があった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■『アイーダ』の死ぬ場面■~大学クラブでの講演~

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 おはようございます。 明るい陽が差す高知の朝です。 午前中は晴れ、午後はにわか雨もありそうです。 天気の急変に注意してください。 木曜日、午後は須崎入りです。 今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーの アメリカ全土の講演旅行は大変だったが、 ニューヨークのクラブハウスでの、 コロニアル・ダムス・オブ・アメリカの 講演会は面白かった、 とした。 講演が終わると、 一人の会員が立ち上がり、 二人の頑強なメイドに支えられて ゆっくり前へ歩いてきて、 ドラッカーに、 よく聞こえずに申し訳ありませんが、 もうすぐ貧乏人が 陽の当たるところを 要求するようになるとは 思わないか、 と訊ねたのだった。 あるいは、 ニューヨーク州ロチェスターの 大学クラブでの講演があったが、 講演の10分前に、 講演を前後半に分け、 間に音楽が入ると言われたので、 どんな音楽かときいたところ、 音楽学校の学生二人に 『アイーダ』の死ぬ場面を やってもらうことにしているのだ、 と答えた。 「私の足元で二人の恋人が死んだ後、  司会者がこちらを向いて言った。  『前半は、こう言われたところまででした』」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■面白いこともたくさん■~75歳以下は一人だけ~

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 おはようございます。 薄曇り、肌寒い高知の朝です。 今日は曇り、 にわか雨の可能性もあり、 涼しい一日になりそうです。 今日は母親の96回目の誕生日、 自活が十分できる状態でありがたいです。 100歳は普通の世の中、 一緒に元気で楽しく生きていきましょう。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーの アメリカ全土を 股にかけた講演旅行は大変で、 雪に閉じ込められたこともあった、 とした。 一方で面白いことも たくさんあったが、 たとえばニューヨークの 素敵な18世紀の クラブハウスでの、 コロニアル・ダムス・オブ・アメリカの 講演会がそうだった、 と続ける。 コロニアル・ダムスとは どんな婦人なのかと ドラッカーの講演エージェントの 女性に聞いたところ、 彼女も知らないが、 講演料は高いです、 と答えた。 すると、ドラッカーを出迎えた クラブの事務長である女性が言った。 「75歳以下の会員は私だけです。  耳の聞こえる者は   一列目と二列目に座らせます。  でも声は大きくしてください。  聞こえるといっても   それほどではありませんので。  三列目から先は気にしないでください。  まったく聞こえませんから」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■講演旅行は大変ではあった■~アメリカ全土を股にかけ~

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 おはようございます。 明るい陽が差し始めた 高知の朝です。 今日も一日晴れそうです。 関東地方は梅雨入り、 こちらも来週あたりでしょうか。 火日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ひとたびヨーロッパで 戦争が始まれば、 自分自身の在アメリカの仕事も なくなるおそれがあった、 とした。 そしてそこでドラッカーは、 書き手としての仕事の基盤を アメリカに移すとともに、 講演者としての仕事を 増やすことにした、 と続ける。 こうして、アメリカが 参戦した頃には、 ドラッカーは アメリカ全土を股にかけ、 年間50回から60回 というペースで講演をしていたが、 その少なくとも半分が、 小さな単科大学でのものだった。 「講演旅行は大変ではあった。  ニューオリンズからジャクソンビルへ、  アイオワのダビュークから  ノース・ダコタのファーゴへという、  その頃の寝台列車での旅は相当に疲れた。  オハイオのグラティスや、  ネブラスカのベアトリスで  雪に閉じ込められたこともあった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■巨大な私立集合大学■~単科大学こそ価値あるもの~

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 おはようございます。 まだ小雨が降る、 肌寒い高知の朝です。 この雨も午後には上がりそうですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ 当時のアメリカにおいて、 世間で脚光を浴びていたのは、 有名大学だったが、 ドラッカー自身は、 まさにアメリカ的な組織である 小さな単科大学に魅力を感じていた。 そしてヨーロッパに そのようなものはなく、 あるのは、 巨大な国立大学あるいは 巨大な大学システムであり、 オックスフォードや ケンブリッジのような 巨大な私立集合大学だった、 と続ける。 ドラッカーの目には、 学生総数150人から700人という アメリカの単科大学こそ 価値あるものに思われ、 この頃、たくさんの単科大学を訪れた、 とする。 「私の見るところでは、  ひとたびヨーロッパで戦争が始まれば、  ヨーロッパの新聞と  金融機関の在アメリカ特派員、  在アメリカ投資顧問という仕事も  なくなるおそれがあった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■小さな単科大学■~まさにアメリカ的な組織~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝です。 今日は午後になれば雨、 そろそろ梅雨の声が聞こえてきそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカへ来た難民学者は、 ニーズに応えさせられ、 学問の境界を超えさせられ、 ヨーロッパの大学では 永久に不可能だったチャンスを 与えられた、 とした。 そしてヨーロッパでは、 総合大学の一員たるべきことを 要求されることなどありえず、 自分の専門に閉じ込められたままか、 せいぜいが一つの学部内で動くことが 許される程度だった、 と続ける。 しかし、不況時のアメリカでは、 ハーバードのような 大学院と研究機能に力を入れる 最大規模の大学さえ、 内部にいかなる軋轢、陰口、 政略があろうとも、 一つのベンチャー、法人、コミュニティに すぎなかったのである。 「それでも世間で脚光を浴びていたのは、  有名大学だった。  ところが私自身は、  小さな単科大学に魅力を感じていた。  それはまさにアメリカ的な組織だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■一流学者に育てあげた■~永久に不可能なチャンス~

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 おはようございます。 まぶしい陽が差す高知の朝です。 今日は晴れ、明日の午後には雨。 外出は今日のうちに済ませてください。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカへ来た難民学者は、 アメリカの大学が、 新たな価値観、方法論、声、顔を 求めているところへ到着した、 とした。 そしてアメリカの大学が、 彼らにインパクトを与え、 アメリカという国が、 母国にいたのでは 有能であるに すぎなかったであろう彼らを、 一流の学者に育てあげた、 と続ける。 ドラッカーは、 彼らはニーズに応えさせられ、 学問の境界を超えさせられ、 ヨーロッパの大学では 永久に不可能だったチャンスを 与えられたとする。 「エンリコ・フェルミも、  イタリアにいたのでは、  ノーベル賞を受賞したあと  大学一年生に教えることは  許されなかったであろう。  これまたノーベル賞クラスの  物理学者レオ・シラードも、  生物学を教えることなど  とても許されなかったであろう。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■難民学者とアメリカの大学■~新たな価値観、声、顔~

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 おはようございます。 明るい日差しの高知の朝です。 今日もこのまま晴れの一日になりそうですね。 しかし、高知の日差しはきつい、 この時期でこれ、この先どうなるのだろう。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカの黒人問題が、 黒人の権利問題よりも、 白人の良心の問題であることを 認識させたものが、 マリアン・アンダーソンの声だった、 とした。 そして、 このような不況時代の激動の中へ、 ある者は嬉々として、 ある者は消沈して、 いずれもわけのわからない言葉を発して、 ドイツ、オーストリア、ハンガリー、 チェコスロバキア、 そして数は少なかったが スペインとイタリアから、 難民学者がアメリカに押し寄せた、 と続ける。 さらに、これらの学者を吸収し、 仕事をあてがうことを可能にしたものが、 この不況に伴うアメリカの激動であり、 一方で、イギリスに向かう者は、 どちらかといえば功成り名遂げた 年輩の学者たちであった、 とする。 「しかし彼らは、  イギリスの大学には  さしたるインパクトを与えなかった。  ところが、アメリカへ来た難民学者は、  アメリカの大学が、  新たな価値観、方法論、声、顔を求めているところへ  到着したのだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■白人の良心の問題■~「レット・マイ・ピープル・ゴー」~

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 おはようございます。 薄っすらと雲がかかってますが、 明るい日が差し始めた高知の朝です。 今日は一日晴れ、 気温もそこそこ暑そうですよ。 木曜日、午後には須崎入り、 今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 サーマンの声は、 あくまでも強く美しく、 われわれの 内なる心の核心にまで達した、 とした。 そして、不況時代は ラジオの時代でもあったため、 われわれは音に敏感になっていた、 と続ける。 そのラジオが、 サーマンを始めとする黒人の声を、 黒人の教会から 白人の居間へと運んだのだ。 ドラッカーは、 皮肉なことに、 黒人奴隷制度の軛から アメリカの白人が解放されたのは、 不況時代のある日、 頑迷な白人さえ驚かされたことに、 愛国的な婦人団体DARが、 その所有するワシントンの コンスティテューション・ホールの使用を マリアン・アンダーソンに断り、 一躍彼女の名を全国に広めたときだった、 とする。 「この一件で、  彼女の「レット・マイ・ピープル・ゴー」が  全アメリカ人の居間に届くようになった。  アメリカの黒人問題が、  黒人の権利問題よりも、  白人の良心の問題であることを  認識させたものが、  マリアン・アンダーソンの声だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■黒人伝道師サーマンの声■~内なる心の核心~

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 おはようございます。 東の空がだんだんと 明るくなってきた高知の朝です。 昨日の高知は真夏の日照りでしたが、 今日は少し雲も出そうで、 いくぶん涼しくなりそうです。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカの黒人問題の解決には、 政策よりも心の転換が必要とされ、 そこには農村社会学以上のものが 必要だった、 とした。 そしてドラッカーの心を、 最も動かしたものが、 ハワード大学の専属牧師 ハワード・サーマンの声で、 ワシントンで週末を過ごす度に、 彼の教会にもぐり込んだ、 と続ける。 サーマンの声は、 最後の本物の黒人伝道師のもので、 マイクとスピーカーのおかげで、 今日もう彼のような声は聞かれない、 とする。 「彼の声は、あくまでも強く、  あくまでも美しかった。  それはわれわれの  内なる心の核心にまで達した。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)