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5月, 2022の投稿を表示しています

■心の転換が必要■~道義的な力と権威~

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 おはようございます。 東の空は薄曇りですが、 だんだん明るくなってきました。 昨日は雨が降り、肌寒い一日でしたが、 今日は晴れて、夏の暑さに戻りそうです。 気温変化が激しい毎日ですが、 体調には十分気を付けてください。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ モーデカイ・ジョンソンは、 ドラッカーの指摘に対して、 ギリシャ人も同胞を奴隷化したが、 売った相手は同じギリシャ人で、 外国からの侵入者に売ったのではない、 と答えた。 そしてドラッカーは、 マーチン・ルーサー・キングが 影響力を持ち得たのも、 真摯さのゆえだった、 と続ける。 彼ら黒人の指導者たちに、 黒人だけでなく 白人にも通用する 道義的な力と権威を与えたものが、 真摯さだった。 ドラッカーは、 しかしおそらくは、 それ以上に重要な役割を果たしたものが、 彼らの声だった、 とする。 「アメリカの黒人問題の解決には、  政策よりも心の転換が必要とされていた。  心に届くためには、  農村社会学以上のものが必要だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■真の解放はない■~外国からの侵入者に売った~

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 おはようございます。 薄曇り、肌寒い高知の朝です。 今日はこの曇りが だんだんと雨模様に変わりそうです。 昨日の暑さは今日は収まりそうですね。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ モーデカイ・ジョンソンは、 サラ・ローレンス大学での講演で、 人類史上アフリカの黒人だけが 進んで同胞を奴隷化し、 アラブ人と白人に売り飛ばした という事実がある、 と指摘した。 そして、アメリカの黒人は 自らのこのルーツを直視しない限り、 真に解放されることはないのだ と結んだ。 これほどの説は、 あまり耳にすることはなく、 講演の後ドラッカーはジョンソンに、 ツキジデスにもあるように、 古代ギリシャのアテネ人が メロス人をひどい方法で奴隷化した、 という事実があるので、 アメリカの黒人だけを指摘するのは間違いだ、 と言った。 それに対してモーデカイ・ジョンソンは 次のとおり答えた。 「知っています。  でも間違っているのはあなたです。  ギリシャ人も同胞を奴隷化しました。  しかし、売った相手は同じギリシャ人でした。  私たちのように、  外国からの侵入者に売ったのではありません」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■真摯さのゆえ■~同胞を奴隷化し売り飛ばした~

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 おはようございます。 東の空は雲が多いですが、 少しずつ明るくなってきました。 今日も一日晴れ、 暑い日曜になりそうです。 良い休日をお過ごしください。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 黒人の地位向上が始まったのは、 ニューディール時代で、 それは南軍兵の子孫であることに誇りを持つ 南部白人の手によってもたらされた、 とした。 そして、この時代は、 アメリカの黒人が、 初めて大量の傑出した人物、 ビジョンを持つ人物、 真に自由な人物を 輩出した時代だった、 と続ける。 ドラッカーは、 不況時代に現れた黒人学者や 黒人伝道師は、 偉大な人たちだったが、 彼らが影響力を持ったのは、 知力、学識、権威のゆえではなく、 真摯さのゆえだった、 とする。 ドラッカーが初めて モーデカイ・ジョンソンに会ったのは、 おそらくニューヨークのブロンクスビルの サラ・ローレンス大学で、 学生と教員に講演をしてくれたときだった。 「彼はそのとき、  アメリカの黒人にとっての  最大の問題は迫害でも差別でもなく、  人類の歴史の中で、  アフリカの黒人だけが進んで  同胞を奴隷化し、  アラブ人と白人に   売り飛ばしたという事実にあると指摘して、  超リベラルとも言うべき  サラ・ローレンスの教授団を   驚かせたのだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■黒人の地位向上■~南軍兵子の孫であること~

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 おはようございます。 明るい陽が差し始めた高知の朝です。 昨日はきつい日差しで 30度を超えたようですが、 今日も暑くなりそうです。 いきなりの夏日で、 水分補給に気を付けてください。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 単純な部族主義は、 不況時のアメリカ人の生活に しっかり根付いたかに見えていたが、 一晩で忘れられる代物だった、 とした。 そして今では、 ユダヤ人の青年が イタリア人の女の子と同棲しても、 誰も気にしないし、 アイルランド系の会計士が プロテスタント系の 会社の社長になっても、 おかしいとは思わない、 と続ける。 ドラッカーは、 他方、この不況時代に見られた 黒人の位置付け、身分、地位の向上は、 北部の白人リベラルの力によって 得られたものではなかった、 とする。 「ハリー・トルーマンや  リンドン・ジョンソンなど、  南軍兵の子孫であることに誇りを持つ  南部白人の手によってもたらされた。  黒人の地位向上が始まったのが、  不況時代、つまりニューディール時代だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■コミュニティと所属の重視■~一晩で忘れられる代物~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝、 さっきまで雨が降っていたようで、 道路が濡れています。 日中は段々晴れて気温も上昇、 真夏の暑さになりそうです。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 不況時のアメリカは、 1920年代よりも部族的だったが、 それが差別的な冷遇か好遇かは 状況次第だったとした。 そして、この部族主義は 不況時代にピークに達したが、 それはコミュニティと所属が 重視されたためだった、 と続ける。 ドラッカーは、 もちろんそれは悪習であり、 重大な害をもたらすおそれがあったが、 それはあくまでも 単純な部族主義であり、 不況時にアメリカ人の生活に しっかり根付いたかに見えて、 一晩で忘れられる代物だった、 とする。 「戦後間もなくの頃、  コロラド州のロッキー山脈国立公園で、  私たち家族がよくハイキングで一緒になった  オクラホマ出身の高校教師は、  「カトリック野郎」とか  「ローマの売春婦め」と罵っていたが、  やがて彼の魅力的な娘二人は  二人ともカトリックと結婚した。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■差別的な冷遇と好遇■~集団を分け隔てるもの~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝です。 昨日は雨も降らず気温も上がりましたが、 今日は降りそうです。 午後に須崎入り、帰りの高速が心配です。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ブラッケンはドラッカーに 狂気の沙汰ならば治しようもあるが、 あれは部族主義で、 社会そのものを麻痺させる、 と言った そしてドラッカーは、 ブラッケンは正しかったが、 間違ってもいた、 と続ける。 不況時のアメリカは、 集団を分け隔てるものとして ルーツや出身を重視したという点で、 1920年代よりも部族的だったが、 それが差別的な冷遇を意味するか、 差別的な好遇を意味するかは 状況次第だった。 「医学部に入りたい  カトリックやユダヤの少年にとっては  厳しい差別だった。  逆に、高校の校長になりたい  カトリックやユダヤ人の教師、  破産管財人になりたいカトリックや  ユダヤ人の弁護士にとっては、  有利な差別だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■まったく狂気の沙汰■~あれは部族主義~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝です。 今日は所々で雨、 気温も左程上がらないようですね。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカで最も差別されていたのは カトリックだった、 とした。 ドラッカーは、 在アメリカ特派員を務めている イギリスの新聞の一つ 『フィナンシャル・ニュース』 の発行人ブレンダン・ブラッケンに まったく狂気の沙汰です、 と言った。 彼は、アメリカの政治、経済、文化における 宗教と民族のかかわりについての 原稿を求めていたが、 共に働いた新聞発行人としては、 最高の感性を持つ人で、 チャーチルの相談相手であって、 事実、第二次大戦勃発後は 情報相として最高の働きをした。 ブラッケンはドラッカーに言った。 「いや、もっと悪い。  狂気の沙汰ならば治しようもある。  しかしあれは部族主義だ。  結局は、社会そのものを麻痺させる」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■差別はカトリック■~公職にユダヤ人を~

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 おはようございます。 今朝も晴れ間がのぞく高知の朝、 日中は今日も暑くなりそうです。 寒暖差が大きい日が続きます、 健康管理に気を付けましょう。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 多くの大学が、 ユダヤ人の入学者数および アメリカ生まれの ユダヤ人教員の採用者数を 厳しく制限する一方において、 ドイツとオーストリアから来た ユダヤ人学者に対しては、 胸襟と財布と教員採用枠を 開放していた、 とした。 そして、ユダヤ人を締め出しているクラブ、 施設、アパートを持ちながら、 市の監査役や検事長などの 有力な公職には、 必ず一人はユダヤ人を選んでいるという コミュニティがあった、 と続ける。 さらには、差別とは、 ニューヨーク、ボストン、 ワシントン、ロサンゼルスでは ユダヤ人に対するものを意味し、 ミネアポリスとアトランタでは カトリックに対するものを意味し、 ピッツバーグではハンガリー人、 スロバキア人、ポーランド人に対するものを 意味した。 「当時ヨーロッパからの移民は  ユダヤ人に対する差別に驚かされた。  しかし実は、アメリカで最も差別されていたのは  カトリックだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■学長は代表的リベラル■~教員採用枠の開放~

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 おはようございます。 ほんのりとした茜雲が 東の空を覆う高知の朝です。 今日は晴れ、 気持ちの良い一日になりそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ニューヨーク大学のチェイス学長は、 赤字対策としてユダヤ人教員に 七割カットを言い渡し、 気に入らなければ辞めていいが、 ユダヤ人では 再就職先はなかなか見つからない、 と言った。 そして、その20年後、 この大学の学部長に就任したドラッカーは、 チェイス学長ご自慢の荒療治の後遺症に 悩まされたが、 このチェイス学長が、 当時の基準では、 自他共に許す代表的リベラルだったのだ、 と続ける。 ドラッカーは、 事実彼は、当時まだ公式には メソジスト派のものだった同大学で、 理事会の反対を押し切り、 他の大学に先駆けて ユダヤ人教員を採用したことを 誇りにしていた、 とする。 「面白いことに、  きわめて多くの大学が、  ユダヤ人の入学者数および  アメリカ生まれの  ユダヤ人教員の採用者数を  厳しく制限する一方において、  ドイツとオーストリアから来た  ユダヤ人学者に対しては、  胸襟と財布と教員採用枠を  開放していた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■複雑な差別関係■~あからさまな反ユダヤ主義~

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 おはようございます。 久しぶりにまぶしい陽が差す 高知の朝です。 今日は一日青空の下で、 気持ちの良い一日になりそうです。 良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカ人が 天災として理解した不況時においては、 『ニューヨーク・タイムズ』の発行人であるか 七番街の行商人であるかよりも、 ユダヤ人であるかないかのほうが 重要な意味を持ったのだった、 とした。 そして、このような状況は、 ヨーロッパからの新参者である ドラッカーには驚くばかりであり、 一見して単純に見えながら、 途中から理解不能になることだった、 と続ける。 ユダヤ人が入れないリゾート施設や カントリー・クラブがあると聞けば、 あからさまな反ユダヤ主義だと思ったが、 似たことは、 大学の入学者数や教員枠についても言えた。 ニューヨーク大学のチェイス学長などは、 不況の最中、赤字対策として 教員給与の四割カットを行なったが、 ユダヤ人教員には七割カットを言い渡し、 次のとおり言っていった。 「気に入らなければお辞めください。  でも、ユダヤ人では   再就職先はなかなか見つかりませんよ」、 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■天災として理解した不況■~金は最大の問題ではない~

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 おはようございます。 深夜に一雨あったようで、 道路が濡れています。 今は振ってませんが、 時折雨の一日になりそうです。 良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーが、 はじめてデトロイトを訪れたときには、 座り込みストライキの最中であり、 労使間の憎悪と敵意は 吐き気を催させるほどのものだった、 とした。 そして、倒産したウォールストリートの 証券会社のオーナー経営者が、 30階の窓から飛び降り自殺しても、 食料配給の列に並ぶ 失業した自動車労働者や、 旱魃で農場から追い出された 移動農業労働者からは、 同情もされないという社会状況だった、 と続ける。 しかし、不況が天災だったアメリカでは、 金は最大の問題ではなく、 金持ちといえども、 貧乏人よりも保証の数が 多少多いだけであった。 「そして、アメリカ人が  天災として理解した不況時においては、  実業家であるか肉体労働者であるかよりも、  イタリア系であるかポーランド系であるかが、  『ニューヨーク・タイムズ』の発行人であるか  七番街の行商人であるかよりも、  ユダヤ人であるかないかのほうが、  重要な意味を持ったのだった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■純粋のプロレタリア■~労使間の憎悪と敵意~

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 おはようございます。 雲が多く薄暗い高知の朝です。 今日はこの調子で、 寒空の一日になりそうです。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 マルクス主義によれば、 大恐慌がアメリカに、 プロレタリアを生み、 革命的な状況を もたらすはずだったが、 実際には逆の結果が もたらされたとした。 そして、大恐慌の前までは、 純粋のプロレタリアと 革命分子が大勢おり、 その後の不況時にも、 階級意識、憎悪、敵意はあった、 と続ける。 ドラッカーが初めて デトロイトを訪れたときには、 座り込みストライキの最中であり、 労使間の憎悪と敵意は 吐き気を催させるほどのものだった、 とする。 「ピッツバーグで製鋼工場を見学しようとしたが、  新聞記者を構内に入れたことがわかったら  何が起こるかわからないと、  USスチールの広報から断られる始末だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■大恐慌が階級意識をもたらす■~北部人と南部人の亀裂~

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 おはようございます。 東の空が明るくなり始めた高知の朝です。 朝晩は時折肌寒く、 日中は夏の暑さ、 寒暖差が大きい時期です。 健康管理に気を付けてください。 木曜日、午後は須崎入りです。 今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 不況下のアメリカは、 大恐慌前の1920年代のアメリカよりも、 反ユダヤ的で反カトリック的となり、 同時に親ユダヤ的で親カトリック的となった、 とした。 そして、ユダヤ人の内部では ドイツ系とロシア系、 カトリックの内部では アイルランド系とイタリア系とドイツ系、 アメリカ全体では 北部人と南部人の亀裂が拡がった、 と続ける。 ドラッカーは、 もしマルクス主義に アメリカで成功するチャンスがあったとしても、 それは大恐慌によって消滅させられた、 とする。 「マルクス主義によれば、  大恐慌がアメリカ人に階級意識をもたらし、  プロレタリアを生み、  革命的な状況をもたらすはずだった。    実際には逆の結果がもたらされた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■違いが強調され境界になる■~ルーズベルトの偉業~

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 おはようございます。 まだ雲が残ってますが、 段々と明るくなってきた高知の朝です。 今日は晴れ間が多いようですね。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 アメリカではコミュニティが健全で、 社会としての不況は天災だった、 とした。 そして、これこそ フランクリン・D・ルーズベルトの 偉業であり、 このことを考えるならば、 経済政策の失態も問題ではないと言えた、 と続ける。 しかしコミュニティが大きな、 役割を果たすようになったということは、 部族的なもの、郷党的なもの、 地域的なものが強化されることを意味し、 宗教、人種、文化の違いが強調され、 互いの境界になるということだった。 「したがって、不況下のアメリカは、  大恐慌前の1920年代のアメリカよりも、  反ユダヤ的となり、  反カトリック的となった。  同時に親ユダヤ的となり、  親カトリック的となった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■常態としての新しい現実■~世界的規模の経済発展~

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 おはようございます。 まだ雲が多く残る高知の朝です。 これから段々回復し、 午後は晴れそうですね。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 不況下のアメリカでは、 こと経済に関しては 回復を期待する者はいなかった、 とした。 いわんや、 やがて来る第二次大戦が終結した後、 人類の歴史上最大にして最長の 世界的規模の経済発展がありえようなどとは、 誰一人として予測できなかった、 と続ける。 そもそも世界戦争が起こって、 なおかつ世界経済がありえようとは 誰にも思われなかった。 ドラッカーは、 つまり、経済だけを見るならば、 不況は天災ではなく、 それはまさに常態としての新しい現実だった、 とする。 「しかし、中心が崩れつつあったヨーロッパと違い、  アメリカは中心がしっかりしていた。  したがってアメリカの社会としては  不況は天災だった。  アメリカではコミュニティが健全だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■いわば神の御心■~経済収縮と経済停滞~

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 おはようございます。 薄暗い高知の朝です。 まだ雨は降ってないようですが、 今日は一時強く降る時間もありそうです。 お気を付けください。 月曜日、今週も一週間よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、、 アメリカの大不況の数年後、 ドイツ軍のロンドン空爆下における イギリス人の勇気と助け合いが、 人々を感動させた、 とした。 しかしドラッカーは、 不況下のアメリカで 同じものを目にしていたので、 それほどは驚かなかった、 と続ける。 天災は、通常続けては 起こらないもので、 それらはいわば神の御心で、 途切れた日常も、 やがて元に戻るが、 不況下のアメリカでは、 こと経済に関しては 回復を期待する者は いなかった。 とくに、 大統領再選を狙った ルーズベルトの 公共投資の効果が 一場の夢に終わった 1937年以降は、 ほとんどいなくなり、 経済成長を期待する者など さらにいなかった、 とする。 「当時最高のエコノミストとされていた  ハーバード大学のケインジアン、  アルヴィン・ハンセンは1938年、  その著『完全回復か停滞か』の中で、  数十年規模の経済収縮と  恒久的な経済停滞を数字と  データを駆使して予測していた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■身分を超えた助け合い■~疑念、敵意、恐怖、羨望~

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 おはようございます。 薄い雲を通して ほんのりと日が差し始めた 高知の朝です。 今日は時々晴れ間も覗きそうです。 良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 1920年代のアメリカは、 人を受け入れようとしなかったそうで、 人を助けようという気持ちの高まりは、 他ならぬ不況のおかげだったのだ、 とした。 そしてヨーロッパでは、 そのようなことは起こらず、 不況は、疑念、敵意、恐怖、羨望を 生んだだけだった、 と続ける。 アメリカの大恐慌への反応は、 天災への反応と同じで、 地震、洪水、ハリケーンの後では、 身分を超えた助け合いが行なわれ、 1930年代のアメリカは、 大恐慌のことを天災のように話した。 「皆が、『どうやって闘った』  『どんなひどい目に遭った』  と饒舌に話した。  そして『でも切り抜けた。君だってそうだよ』  と結ぶのだった。  その数年後、  ドイツ軍のロンドン空爆下における  イギリス人の勇気と助け合いが、  人々を感動させた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■人に冷たく助けず、受け入れない■~不況時に特有のもの~

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 おはようございます。 まだ雲が若干残ってますが、 段々と明るくなってきています。 今日は晴れ間もありそうですね。 良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 当時のアメリカでは、 初めて会った人間を自分の目で見て、 そのまま受け入れようという姿勢が 至るところで見られた、 とした。 そして、たしかに、 不況時のアメリカは 形式張らなくなっており、 人に賭けてみようとする姿勢は、 あの不況時に特有のものだった、 と続ける。 その後ワシントンでよく会うようになった ユージン・マイヤー、 プリンストン大学の学長を長く務めた クリスチャン・ガウス、 『ハーパーズ』のフレッド・アレンなどが ドラッカーの疑問に答えたところでは、 1920年代のアメリカは、 形式張らない文化ではあったが、 ヨーロッパと比べてさえ、 人に冷たく、人を助けず、 人を受け入れようとしなかったそうだった。 「人を助けようという  気持ちの高まりは、  他ならぬ不況の  おかげだったのである。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■不況がもたらした温かな心■~そのまま受け入れる~

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 おはようございます。 Friday the 13thの高知の朝、 雨は小康状態です。 今日はこんな感じで 時折雨の一日の様ですね。 しかし天気も予測不能ですので、 気を付けておいたほうが良いですね。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーはアポなし交渉で、 『サタデイ・イブニング・ポスト』にも 掲載することができた。 そして、 産業や教育について記事を頼まれ、 会社や大学や政府機関への インタビューを申し込んだり、 資料を頼んだりしたときにも、 初めて会った人間を自分の目で見て、 そのまま受け入れようという姿勢は 至るところで見られた、 とする。 同じ姿勢は、その少し後、 母国オーストリアから、 津波のように人が押し寄せて来たとき、 彼らの仕事口を求めて、 ほんの少ししか知らない人や、 まったく知らない人に会ったり、 電話をしたりしたときにも見られた、 と続ける。 ニューヨーク市立大学の学長などは、 ドラッカーとほとんど面識が なかったにもかかわらず、 電話に対してこう言った。 「今は、数学の教員には空きがないんですよ。  でも、もしかして、  どなたか音楽を教えられる方は  ご存じありませんか。  一人欲しいんですが」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■『サタデイ・イブニング・ポスト』■~一本目はいつもらえるか~

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 おはようございます。 朝から小雨の降る高知の朝です。 今日は一日雨、 時折強く降るとのことです、 お気を付けください。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーが初めて 雑誌の『ハーパーズ』に 書くことになったことも アポなしでの 押しかけによるものだった。 そして、 『サタデイ・イブニング・ポスト』の 国際面編集者のマーティン・リアーズにも 約束なしに会えた、 と続ける。 ワシントンへ行った折、 帰りの汽車の中で 急に会えないものかと ドラッカーは思い、 フィラデルフィアで途中下車し、 インデペンデンス・スクエアまで 電車で行った。 そこで彼は、 面白そう、 一本目はいつもらえるか と聞いた。 「五日後の朝、  電話がかかってきた。  『今届きました。  二、三行切らせてもらいますが、  掲載いたします』」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■『ハーパーズ』副編集長に会う■~『「経済人」の終わり』への影響~

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 おはようございます。 どんよりとした曇り空、 さっきまで雨が降っていたようで、 道路が濡れています。 今日は雨も小康状態の様ですが、 週末まで雨模様が続きそうです。 コロナ感染者数が高知では過去最高。 GWの賑わいをみれば、 然もありなん、でしょうね。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーが初めて 雑誌の『ハーパーズ』に 書くことになった経緯も、 『ポスト』と似たようなもので、 紹介もなしに押しかけた、 とする。 そのころドラッカーは、 処女作『「経済人」の終わり』を 書き上げたところだったので、 発行前に紹介記事が出れば、 売れ行きによい影響が 出るのではないかと考えた、 と続ける。 ドラッカーは『ハーパーズ』の 副編集長のフレデリック・ルイス・アレンの 名前は知っており、 彼の新著、1920年代のアメリカを書いた 『オンリー・イエスタデイ』を読んでいた、 とする。 「電話をした。  事務所へ来られないかと言われた。  会って説明すると、  ぜひ書くようにと言ってくれた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■『ポスト』発行人と会う■~150ドルという大金~

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 おはようございます。 薄曇りの高知の朝、 昨日は時折雨の一日でしたが、 今日は雨の心配はなさそうです。 しかし、今週は雨が続きそうですね。 5月も中旬、やがて梅雨の声も 聞こえてきます。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 『ポスト』の国際面編集者の バーネット・ノーバーを アポイントも取らずに訊ね 2時間で契約をもらい、 前金をもらった、 とした。 そしてノーバーは、 ドラッカーの履歴や経験を気に入り、 『ポスト』の発行人 ユージン・マイヤーのところへ 連れて行った。 そのマイヤーも ドラッカーを気に入り、 原稿を見ないで掲載を 約束することはできないが、 独占的な掲載権は欲しいので、 原稿料の前金として、 二本分を支払いたいが どうだろうかと言った。 「それで決まりだった。  もちろん彼としても、  大きな賭けはできなかった。  しかし150ドルといえば大金であり、  ヨーロッパ滞在中の費用の  ほとんどを賄うことができた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■アポなしの面会■~進んで人に賭ける~

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おはようございます。 どんよりと曇った高知の朝です。 今日はこれから雨、 気温も20度を超えないようです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーに、 事務所を紹介してくれたその人は、 お客の紹介もしてあげたいとまで言ってくれた。 当時のアメリカでは、 進んで人に賭けてみようという気持ちも本物で、 1938年にドラッカーが ヨーロッパに行った際、 ワシントンの『ポスト』の国際面編集者に、 紹介なしに電話して原稿の依頼を受けた、 と続ける。 当時国際面で充実した執筆陣を擁していた日刊紙は、 『ニューヨーク・タイムズ』と シカゴの『トリビューン』だけで、 『ポスト』は、 国際面の記事の多くを シンジケートを通じて、 主として両紙のものを使っていた。 ドラッカーは、 同紙が海外特派員を 持つことはできないものの、 独自の外国種の記事を 欲しがっていることを 小耳にはさんだ。 「そこで、  電話をかけて国際面の  編集者の名前を聞いた。  バーネット・ノーバーだった。  私はアポイントも取らずに出かけて行った。  二時間で契約をもらい、前金をもらった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■ブロードウェイ120番地■~お客の紹介まで~

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 おはようございます。 東の空が茜に染まり始めた高知の朝です。 GWも最終日、今日も涼しい一日になりそうです。 日曜日、良い休日をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 エレベーターに乗っていた際に、 数か月前フリードバーグ商会を訪問していた ニューヨークの証券会社の人から声をかけられ、 その人に事務所となる部屋を借用できるよう、 紹介してもらった。 そのおかげでドラッカーは、 ブロードウェイ120番地の 有名なエクイタブルビルの一部屋を、 はるかに汚い部屋の 四分の一の賃料で借りることができ、 しかも、事務机やソファは、 彼の会社がただで貸してくれた。 そして、彼はお客でも ご紹介してあげられればよいのですが とまで言ってくれた。 「いや、ご心配なさらずに。  でも、もしよしければ  ヨーロッパに送られるレポートの  メーリング・リストの端にでも、  うちの社の名前を入れていただければ、  うれしいんですが。  私のほうでも、  あなたのお名前をメーリング・リストに  入れさせていただきますよ」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■事務所の紹介■~エレベーターでの出会い~

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おはようございます。 薄明かりが差し始めた高知の朝です。 このところ肌寒い日が続きますが、 今日も20度ちょっと。 晴れ間も多そうなので、 気持ちにいい一日になりそうですね。 土曜日、良い週末をお過ごし下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーが、 町中の小さなホテルの暑さに耐えきれず、 引っ越し先を探していたところ、 偶然船中で知り合った 弁護士とばったり出会い、 ブロンクスビルのアパートを 紹介してもらうことになった。 そしてさらに、 事務所も、 ほとんど知らない人の好意で借りられた、 と続ける。 あるビルでエレベーターに乗っていたところ、 「ロンドンのドラッカーさんじゃありませんか」と、 数か月前フリードバーグ商会を表敬訪問していた ニューヨークの証券会社の人から声をかけられた。 ドラッカーは、 イギリスの金融機関の投資顧問と 新聞の特派員として、 ニューヨークに本拠を移したことを説明した。 「するとその人は、  『それでは事務所が必要でしょう。  ちょうどうちの社で三部屋ほど  空くことになったんですよ』  と言ってくれた。  彼は、そのうちの一部屋について、  部屋代の交渉までしてくれた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■ブロンクスビルのアパート■~六番街の地下鉄工事~

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 おはようございます。 雲の多い高知の朝です。 GW後半の3連休が終わり、 週末との合間の平日、 仕事の人も多いでしょうね。 頑張りましょう。 昨日は、娘が出産、 三人の母親となりました。 上二人が男の子で、 見事女の子を授かりました。 新しい家族が増えてめでたしめでたし。 皆様からのお祝いのメッセージ、スタンプ ありがとうございました。 金曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーが、 町中の小さなホテルに 泊まったその日、 ニューヨーク恒例の 四月の熱波が襲って来たが、 部屋には冷房はなかった。 そして、 窓の外の六番街では、 夜を徹して地下鉄工事が 行なわれており、 窓を開けたり閉めたりして 二晩過ごしたところで、 とうとう逃げ出すことにした、 と続ける。 しかし、どこへ逃げ出したらよいのか 皆目見当もつかず、 地下鉄に乗るべく 階段を下りて行ったら、 船中で知り合った 弁護士とばったり出会い、 彼は暑いでしょうと聞いた。 ドラッカーは、 あまりに暑いので、 郊外の静かで少しは 暑さのひどくない所へ 引っ越したいが、 右も左もわからずに 困っていると答えた。 「彼は、『それじゃ、ちょっと待ってくださいよ。  私の甥がブロンクスビルのアパートから引っ越すので、  契約の残り期間を引き継いでくれる人を  探しているはずなんです』と言ってくれた。  48時間後、私たちはブロンクスビルへ引っ越した。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■人の好さと行動力■~ニューヨーク恒例の四月の熱波~

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  おはようございます。 室戸岬での夜明け、 太平洋の果てから朝陽が昇り始めました。 生憎曇り空ですが。 初めての室戸岬泊り、 ごつごつの雄大な自然が新鮮でした。 木曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカー渡米の半年前に ニューヨークに着いていた弟は、 伝手は一つしかなく、 見つけ出したその人は 紹介されたウィーンの 小児科医のことを 覚えていなかった とした。 おまけに、 彼の病院にはインターンを 受け入れる余地が 丁度なかったが、 たまたま空いていた インターン用の宿直室に 泊まれるよう手配し、 片っぱしから近くの病院に 電話を入れてくれた、 と続ける。 そして、無事弟は、 二、 三日後 にはニューヨークの 小さいがよく知られた病院で インターンとして働き始めた。 ドラッカーは、 この時代のアメリカ人の 人の好さと行動力は、 仕事探しについてだけではなかった、 とする。 「四月の終わりに  ニューヨークに着いた私たちは、  町中の小さなホテルに泊まった。  その日、ニューヨーク恒例の  四月の熱波が襲って来た。  冷房はなかった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■共通の敵への一撃■~人を励まし力を貸した~

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 おはようございます。 朝から快晴の高知です。 このところ朝晩の寒暖差が 大きいですね。 昨年帰郷して以来 母親との一泊温泉旅行に ちょくちょく出かけてますが、 今回は室戸岬。 海洋深層水の露天風呂に つかりながらの 雄大なオーシャンビュー、 その後の地元魚料理で一杯、 楽しみです。 水曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 当時のニューヨークでは、 懸命に働く必要はあったが、 嫉妬や羨望には無縁の社会だった、 とした。 そして、誰かの成功は皆の成功であり、 むしろ共通の敵への一撃で、 誰もが、 人を励まし、 力を貸した、 と続ける。 仕事口があることを耳にすれば、 仕事を必要としている人を探し、 仕事を必要としている人のことを耳にすれば、 仕事口を探した。 ウィーン大学で医学博士号を 取得したばかりのドラッカーの弟は、 半年前にニューヨークに着いていたが、 伝手は一つしかなかった。 「ウィーンの知り合いの  小児科医の35年前の同窓生が、  一人ニューヨークにいるはずだった。  しかもようやく見つけたその人は、  そのウィーンの小児科医のことを  覚えていなかった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■身の引き締まる時代■~嫉妬や羨望には無縁の社会~

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おはようございます。 まぶしい陽が差し始めた高知の朝です。 今日は憲法記念日、 GW後半に突入です。 人手が戻ってますね、 しかも県境をまたがった移動が。 観光、交通関連事業は久しぶりに ほっとしてるでしょう。 宴の後に禍根を残さないように、 気を付けて楽しみましょう。 火曜日、今日も一日よろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 ニューヨークにやってきた ヨーロッパ人の常として、 近郊の自然の美しさには 心底驚かされていた、 とした。 そして、指摘しておきたい 最も重要なことが、 あの移民局の係官に象徴された、 不況期のアメリカに特有だった 人の好さと行動力だった、 と続ける。 たしかに当時の不況は、 多くの者にとって 再起することのできない破局で、 親は失業によって打ちのめされ、 子は生涯消えることのない傷を 負っていた。 しかし、ドラッカー世代の 比較的若い者にとっては、 むしろ身の引き締まる時代だった、 とする。 「懸命に働く必要はあった。  安定だけを求める者にとっては辛かった。  しかしそれは、  嫉妬や羨望には無縁の社会だった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■近郊の自然の美しさ■~ニューヨークの物価の安さ~

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 おはようございます。 未明の高知、 曇っているようですが、 だんだん明るくなり始めました。 連休合間の月曜、 休みの人も多いことでしょう。 晴れ間の多い一日になりそうです。 月曜日、今週もよろしくお願いします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、 月収250ドルは、 当時としてはかなりよい収入だった、 とした。 そして当時は、 タイピストならば 週給15ドルで運がよかった、 と続ける。 ドラッカーは、 アメリカに来て最初に驚いたのが、 ニューヨークの物価の安さで、 失業率40%というウィーンよりも安かった、 とする。 月収250ドルのドラッカーが、 ニューヨーク近郊でも 上等な住宅地だったブロンクスビルで、 寝室三つの庭付きの家に住み、 週末のドライブ用に、 かなり新しい中古車を 手に入れることもできた。 「私たちもニューヨークにやってきた  ヨーロッパ人の常として、  高層ビルは想像していた通りだったが、  近郊の自然の美しさには  心底驚かされていた。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)

■一級通訳の給与250ドル■~涙を流さん喜びよう~

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 おはようございます。 曇り空、肌寒い高知の朝です。 この空も、 午後には段々と晴れてきそうですね。 良い休日をお過ごしください。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬ ドラッカーは、1938年のはじめの 移民局の係官とのやり取りを、 お人好しの小春日和のアメリカを 象徴するものとして、 今でもよく覚えている、 と言った。 そしてドラッカーの月収は 当時250ドルほどだったが、 移民局の係官が押し付けた書類によると、 一級通訳(外国語二か国語、大卒)の 月額給与も250ドルだった、 と続ける。 あの係官は気付かなかったが、 前年の収入1800ドルという数字は、 ドラッカーがアメリカで働き始めた 5月以降の前年の収入だったのだ。 そして月収250ドルは、 あの係官も言ったように、 当時としてはかなりよい収入で、 当時のドラッカーの秘書は、 ハンター大の卒業で 三か国語を話したが、 週給25ドルだった、 とする。 「半年後に30ドルに上げたときには、  涙を流さんばかりの喜びようだった。  当時は、タイピストならば  週給15ドルで運がよかった。」 (3 アメリカの日々 15章お人好しの時代のアメリカ)