■部分ではなく全体を見る時代へ(2)■~昨日のものとなったモダン~
おはようございます。
薄っすらと青空が広がる高知の朝です。
日中は晴れて夏日、
午後からは段々と雲が増えそうです。
火曜日、今日も一日よろしくお願いします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
∬ちょこっと、ピータ.ドラッカー∬
~『テクノロジストの条件』から
上田さんは、
モダンが世界を覆い尽くしたと思われた
20世紀の半ば、
論理だけでは説明できない問題が
急増し始めた、
とした。
そして、
21世紀が直面する問題の多くが、
もはや論理だけでは理解も
解決もなくなったのだ、
と続ける。
さらに、全体を全体として
把握しなければならなくなり、
命あるものとして
見なければならなくなったのだ、
とする。
ドラッカーがこの変化に気がついたのが、
半世紀前の1950年代半ばのことで、
次のとおり説く。
「昨日のものとなったモダンが、
表現の手段、処理の道具として機能している。
他方、新たなるボストモダンが
手段と道具を持ち合わせることなく、
われわれの行動を事実上支配している。」
(『ドラッカー時代を超える言葉』Ⅴ 変化を捉える 1 いかに変化を知覚するか ポストモダンの作法)
コメント